賎ヶ岳を下山し、木ノ本ICから北陸道に入り米原JCTで名神高速に入って関ヶ原ICで下りた。目指すは天下分け目の関ヶ原。実は二、三年前に事務長と探訪したことがある。そのときは石田三成が本陣を布いた笹尾山に登らなかった。ために松尾山・南宮山の比定に信念を欠いた。今回は笹尾山に登り、関ヶ原古戦場全域の地理を掌握する。登山と言っても、言う程のことはない。これが笹尾山f(^_^;)
三成が家禄の半分を提供して召し抱えた家老「島左近」は笹尾山の麓に布陣した。当時の戯れ歌に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」というのがあった。それほどに島左近の名声は高かったのだが、その生まれや最期は定かではない。忠臣だったことは確かだし、関ヶ原の合戦場で奮戦したことも確か。そして戦場の露となって消え果てたことも確かなよう。
笹尾山山頂に登る道
山頂。と言ってもたかだか二、三十メートルの山。しかし大戦場と言えどもこの二、三十メートルが馬鹿にならない高み。
山頂に「関ヶ原合戦陣形図」があった。これが貴重
南宮山方面
笹尾山から見た南宮山。南宮山の山上に西軍の総大将に祭り上げられた毛利秀元の軍勢が布陣していた。その下山路を押さえる位置に分家の吉川広家の軍勢が布陣した。吉川広家は家康と内通し、毛利軍を戦場に参加させないことを約束していた。東軍西軍どちらが勝とうが負けようが、毛利本家が生き残れるようにとの措置。家康は背後に毛利・吉川軍を背負いながら堂々と南宮山の麓の「桃配山(ももくばりやま)」に最初の本陣を布いた。この山には故事がある。壬申の乱(672年)で、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)がこの山に布陣し、戦いに臨むに当たり全兵士に土地の名産の桃を配った、兵士達は感激して奮戦し、快勝した。それでこの名がある。家康はこの故事に倣い縁起を担いで最初の本陣を桃配山に置いたという訳。南宮山の右端に小山らしきものが見える、これが「桃配山」。標高100mちょっと。因みに関ヶ原は古代の「不破(ふわ)」の地。「不破の関」もここにある。古来、東西の勢力圏の予定戦場だった。
松尾山方面
手前右端の緑濃い山と遠くに霞んだ高い山の中間に位置して、低くなだらかな稜線を引く山が「松尾山」。この山に「小早川秀秋」が西軍の振りをして陣を布いた。実は家康と内通し裏切りを約束していた。松尾山の裾近くに大谷吉継軍が布陣した。
左の山は南宮山。右端に低く見える稜線は松尾山のもの。右側に遠く霞んで見える山は養老山系。南宮山の右端を養老山系に向かって伊勢街道が走る。松尾山の小早川軍が奮闘する大谷吉継軍の腹背を衝いて大合戦の勝敗が決しようとする時、三成の本陣近くにあってそれまで不動だった島津軍が動き出した、そして戦場から離脱するため正面突破を敢行したが、その目指す先はこの伊勢街道だった。南宮山の左端を東山道が走る。この道は関ヶ原で分れて北国街道と京に上る道となる。
決戦地(中心)を遠望する
決戦地に立つ旗・幟(のぼり)。左側の小山が「笹尾山」。決戦に破れ、三成は北国街道を落ちて行く。
「史蹟・関ヶ原古戦場・決戦地」の石碑
島津義弘の陣跡。島津陣は笹尾山から戦場を見て右側一番手に位置していた。島津軍一千は開戦後、石田三成の再三の要請にもかかわらず戦場の真ん中にあって動こうとしなかった。動き出したのは勝負が決した後だった。正面突破して戦場を離脱し伊勢街道を目指していった。家康は追撃させなかった。
「小池・島津義弘陣所跡」石碑
島津陣の近くから見た松尾山
同じく南宮山
「史蹟・関ヶ原古戦場・開戦地」の石碑。開戦地は「小西行長」陣のすぐ近くだった。
2010年7月13日火曜日
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