寶佛殿
経蔵
納骨堂前の蓮池
納骨堂
大鐘楼。坂を登った境内の山手(辺鄙な所)にある。「行く年来る年」の除夜の鐘の実況放送でお馴染。これまで見た鐘楼の中で文句なしに最大。
御影堂・側面
経蔵・側面
法然上人御廟所へ
御廟所門前
勢至堂
後奈良天皇の「しんかん(直筆)」掲額、「智恩教院」とある。《知恩院》の寺号の元となった。
勢至堂左横のお堂
お堂の中。地蔵尊
丈六大仏の頭部
御廟は一段高い所にある
拝殿
御廟
●小(こ)方丈・大(だい)方丈と方丈庭園の探訪は割愛。靴・靴下がずぶ濡れで方丈の廊下に足跡をべたべたつけることになり嫌がられるので(以前濡れた足で板の間に上がることを拒否されたことがある)。別に見たくもなかったし。
御影堂から阿弥陀堂を見る
三門
三門を潜って今日の探訪旅行は終わり。東門から円山公園に入り、市営駐車場で料金を精算。3,250円也。6時間半分。雨中の歩数は15,700歩。七尾到着は夕方6時15分、ちびまる子の後半を見た。晩8時から参院選開票特報。民主党、1人区で惨敗、参院で少数与党に。
Wikipediaより→「知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の1133年、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。1175年、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀如来の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は1207年には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の1211年には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、1227年、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。1234年、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。その後も1431年の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されている。現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は1608年から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は1621年に建設された。1633年の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、1641年までにほぼ完成している。知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたものである。」
○方丈庭園はやっぱり見る価値がありそう。次に行ったら最初に見る。
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