2015年5月27日水曜日

〇《奥の細道》紀行・奥州路(29) 平泉(三)「衣川」「泉ヶ城」「弁慶の墓」

《奥の細道》より。『‥衣川は、和泉が城をめぐりて、高館(たかだち)の下にて大河(北上川)に落入る。‥‥』 「衣川は、和泉が城をめぐりて」という文章の意味は、地図を見るとよく分かる。地図右上に泉ヶ城跡があるが、衣川が城跡を三方から囲むようにして廻って流れている。高館からは見えない。中尊寺が建つ山が前方に在って視界を遮っている。泉ヶ城は前九年の役・阿部貞任の時代から要衝としてあったらしいが、義経滅亡の時にここを居館としていたのは、藤原3代目・秀衡の三男・泉三郎忠衡(ただひら)だった。彼は、父・秀衡の遺命を守り、義経襲撃に加わらず、後日兄・泰衡によってこの城を攻められ討死にした。享年23歳。泉三郎の居館だったことに因んで「泉ヶ城」と呼ばれるとの説がある。
〇「泉三郎忠衡」については、《奥の細道》『塩竈神社・文治燈籠』の段が劇的である。芭蕉は彼を勇義忠孝の士と讃えている。忠は、義経を裏切らなかったこと、孝は、父の遺命(義経公の下知に従い、鎌倉殿に対抗せよ)に従ったことを指す。→リンク先 http://takashikun.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html
衣川
↓衣川の上流方面。左に見える小富士の様な山は「月山」らしい。月山は、曾良の随行日記に「月山・白山」と並んで探訪地に挙げられる。白山は遂に分からず。月山の近くに「泉ヶ城」があった。城跡は今は民家の敷地や田畑に変わっているという。
 ↓衣川の下流を見る。正面の山は「束稲山(たばしねやま)」。山の麓を北上川は悠然と流れる。衣川はもうすぐ北上川に合流する。
 ↓衣川に架かる新橋から中尊寺方面を見る。正面の細長い小山の尾根に中尊寺の堂塔伽藍が建ち並ぶ。義経が最期を遂げた高館は、この小山の左側に行った所にある。
↓中尊寺東物見台から見た衣川。中央に北上川が見えている。衣川に架かる橋が見えている、この橋から上の写真は撮られた。

衣川の合戦と世に言われるが、義経方は忠臣10人が全員奮戦しただけ。藤原方は郎党を挙って攻め寄せた(が、秀衡の息子たちはさすがに義経に合わせる顔が無くて戦場に出向いて来なかったらしい)。義経主従がそれぞれどこで討死に又は自刃したかははっきりしない。衣川に防御線を引くのはさすがに多勢に無勢過ぎて戦にならない。やはり義経が籠った高館の山上や山麓で果てたと見るべきだろう。弁慶が立ち往生して果てた場所も、衣川では義経と離れ過ぎ。
弁慶の墓
↓中尊寺門前・月見坂登り口の手前にある武蔵坊弁慶の墓。
 ↓武蔵坊弁慶の墓
 ↓「‥‥後世中尊寺の僧・素鳥の詠んだ石碑が建てられた。《色かえぬ松のあるじや武蔵坊》
 ↓「特別史跡・中尊寺境内飛地・伝弁慶墓」


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