2015年5月13日水曜日

〇《奥の細道》紀行・奥州路(5) 《曾良・随行日記》に書かれた仙台行脚 亀が岡八幡宮、仙台東照宮

曾良・随行日記》よれば、《奥の細道》仙台行脚の次第は次の通りである。芭蕉の文学作品と曾良の紀行日記には大分ズレがあることが分かる。
(五月)四日 ‥‥夕方仙台に着く。
五日 ‥‥略(人との往来)‥‥
六日 天気能(よし)亀が岡八幡へ詣(もうず)城の追手(おうて)より入る。俄に雨降る。茶室へ入り、止(やみ)て帰る。』
〇「亀が岡八幡神社」は仙台城の裏手にある。近くに東北大学が立地している。この神社に参詣する者には、城の大手門を通って近道することが許されたらしい。
↓「亀が岡八幡神社」 辿り着くのに四苦八苦。半ば諦めかけたが、執念で辿り着いた。

 ↑「‥‥亀岡八幡宮司山田土佐守・千手院興祐らも俳諧を嗜み、仙台俳壇の開拓者大淀三千風に師事していた。‥‥元禄二年正月六日、「おくの細道」の旅の芭蕉と曾良は、亀岡八幡宮に参詣した。「曾良旅日記」には、‥‥。亀岡八幡宮は「おくのほそ道」の行文には書かれなかったが、境内から遠望した金華山をはじめとする光景は、芭蕉の心に深い印象を与えた。昭和二十年七月九日の夜から十日未明にかけて、仙台はB29の焼夷攻撃をうけた。その結果、亀岡八幡宮の社殿と宝物のすべてが焼失した。往時の面影は、大鳥居と石階に残っているにすぎない。」
 ↓ボクの苦手な石段登りの始まり。ボクは狭心症で貧血症。




 ↓鶴(の置物)が二羽いたのでわざわざこの手水舎を写した。
 拝殿

 本殿
七日 快晴。(画工)加衛門(北野加之)同道に而(て)権現宮を拝す。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣で、木の下へ行く。薬師堂、古へ(いにしへ)国分尼寺之跡也。帰り曇り。夜ニ(に)入り、(画工)加衛門・甚兵へ(衛)入来す。冊(短)尺并(ならびに)横物一幅づゝ翁書き給ふ。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衛門持参す。翌朝、のり壱包持参す。夜ニ(に)降る。』
〇「権現宮」 仙台東照宮のこと。
↓大鳥居・重文


 ↓随身門・重文

 ↓神輿者
 ↓神楽殿
 ↓手水舎
 ↓拝殿・重文

 ↓唐門
 ↓本殿・重文


八日 朝之内小雨す。巳の尅(巳の刻、午前十時頃)より晴れる。仙台を立つ。‥‥
〇こうして芭蕉・曾良の四泊五日の仙台行脚は終わった。次は、多賀城跡・壺の碑(いしぶみ)、歌枕の数々、塩竈神社を目指す。


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