2015年5月25日月曜日

〇《奥の細道》紀行・奥州路(27) いよいよ「平泉」(一)に入る。

〇《曾良随行日記》より、
『(五月)十三日 天気明ける(前日は雨強く降り、合羽も通るほど)。巳の剋(みの刻、午前十時頃)ヨリ平泉ヘ趣く。一リ(里)、山の目。壱リ(里)半、平泉(‥‥)ヘ以上弐里半ト云えドモ弐里ニ近シ。高館(たかだち)・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂(金色寺、別当案内)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云えドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤ(屋)ヘ不ㇾ行(行かず)。三十町有る由。月山・白山ヲ見ル。経堂(きょうどう)ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン(新御)堂、尤量劫院(無量光院)跡見る。申の上剋(さるのじょうこく・午後三時四十分頃)帰る(一関に)。主、水風呂敷ヲシテ待つ。宿ス。』 
・ 翌朝、芭蕉と曾良は出羽国・尾花沢に向けて一関を立ち山また山の行程に分け入る。即ち、平泉探訪はわずか半日だった。
・ 「経堂(きょうどう)ハ別当留守ニテ不開」と曾良が書いたことを覚えておいてほしい。芭蕉はここでも文学的創作(虚構)をしていることが分る。
〇《奥の細道》より、
三代の栄耀(藤原清衡・基衡・秀衡三代の栄華)一睡の中(うち)にして、大門(平泉館の南大門)の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山(平泉館の西方の小山)のみ形を残す。先ず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部(岩手県盛岡を中心とした地方)より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして青草みたりと、笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
《夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡  芭蕉》
《卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな  曾良》
‥‥(平泉の段・続く)』

0 件のコメント:

コメントを投稿