2016年8月20日土曜日

〇《文化財探訪》8-12(金) 栃木県下野市「下野薬師寺跡」。古代三戒壇の一つ、弓削の道鏡左遷の寺

栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫(大宰府)の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「本朝三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡宇佐八幡宮神託事件ののち当寺に左遷されたことでも知られる寺院である。
下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている(以上Wikiより)。
↓「下野薬師寺・歴史館」発見


 閉館時刻・午後5時オーバー
 ↓「下野薬師寺跡」の表示発見

 ↓発掘された西回廊。奥の西北角に復元回廊建物が建っている

 ↓伽藍復元図。回廊で囲まれた四角い伽藍境内の外側に、外郭塀で囲まれた広大な敷地が展開している。回廊の外側で外郭線の内側の・図の右下に五重塔があったそう。

 ↓回廊西北角部分の復元


 ↓復元された西北角の回廊を西側から見ている
 ↓北側から見ている
 ↓西北から見ている
 ↓回廊の内側

 ↓六角堂。現在外郭の南東に位置する安国寺に所属するらしい。旧薬師寺の戒壇院の跡に建っているという

 ↓左側奥に復元された回廊が建っている
 ↓「下野薬師寺戒壇院」石碑
 ↓「六角堂 所有者・安国寺 安国寺の六角堂は、かつての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。江戸時代には、釈迦堂と呼ばれ、その姿は、文化2年(1805)に刊行された『木曽路名所図絵』によっても確認できます。現存する建物は、近年に修繕された部分も少なくありませんが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。また、その名の通り建物の形、さらに屋根・外回りの柱・礎石までが正六角形造りの県内でも珍しい仏堂です。現在では、下野薬師寺跡のシンボル的な存在にもなっています。内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されており、両脇には、木造の不動明王像・韋駄天像などが祀られています」
 ↓厨子(鑑真和上の画像が納められている)と、向って右に不動明王立像、左に韋駄天立像
 ↓左に六角堂、右奥に復元回廊建物が見える
 ↓外郭境内の南東隅にある安国寺

 ↓外郭境内の南東角に隣接する薬師寺郷八幡宮


〇下野薬師寺はボクにとっては不思議な幻想の世界に所属する寺だった。天智・天武天皇の時代、下野(当時は下毛野(しもつけぬ))の国は文化の果てる東夷の住む地方と言われていたはずだ。そこに奈良・東大寺、大宰府・観世音寺と並んで国立戒壇を持つ寺が既に存在していたとは、俄に信じ難かった。今一つ奈良時代の大事件に絡んでこの寺の名が登場する。宇佐八幡宮神託事件で失脚した弓削の道鏡が下野薬師寺の別当として左遷されたという。そう記事にあってもボクの脳裏にはこの寺の存在感は全くなかった。今日下野薬師寺跡に立って見て初めて、ここに古代既に国立戒壇院があったことを実感した。道鏡の面影も見た。文化財探訪の旅の冥利。天智・天武天皇の時代、北関東は既に蛮夷の棲む地方ではなかったと歴史認識を更めよう。

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