2011年10月14日金曜日

「秘仏」ほど有難味のないものはナイ。

寺院を探訪して回ると至る所に「秘仏」がある。秘密にしようとしまいと住職の勝手だからどうでもよい。別に見なくてもどうということのない仏像は五万とある。しかし、国指定の重要文化財・国宝級となると話が違うだろう。それらは間違いなく傑作なのだ。傑作は是非見なくてはならない。そもそも仏像とは「偶像」でしょう。形而上にあって見えぬモノを、人間の想像と手技(てわざ)でわざわざ目に見えるように創造したもんでしょう。それを「秘仏」にするとは何事か。隠し事。何故隠すのか。この世のモノとも思えぬ素晴らしいモノを見たいというのは人間の素直な願望、それに浸け込む魂胆がありあり。見たいというヒトの欲望に封をして飢餓感を煽り立て、有難味に箔を付けるという浅ましい計算・戦術が透けて見える。偶像として見られるべく生み出された仏像は、素直に見せるのが本来自然の在り様。見せて崇拝されるかどうかは、仏像の体現する思想性・神秘性・美術性・芸術性に関わる。吾輩は「秘仏」に遭遇すると、この世に無きものにする。偶像を隠すなど、本末転倒の愚劣な発想・行為だと弾劾する。「秘仏」の封印・呪いを解かない限り見せてやると言われても見ない。「秘仏」に有難味など金輪際ない。ただ吾輩は、本や絵葉書になった「秘仏」写真は喜んで見る。写真になって公開されている限りでは「秘仏」の呪縛は解けている。素晴らしいモノはやっぱり素晴らしく見える。

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