2013年11月3日日曜日

〇11/3(日、文化の日)長野県佐久市で重文三件探訪し、山梨県の野辺山高原・清里の紅葉を愛でながら、静岡県富士宮市「大石寺(たいせきじ)」まで脚を伸ばした。

09:00・横川SAを出発。出立がちょっと遅れた。このことが後々まで祟った。佐久平に降りた。富士宮の大石寺(たいせきじ)探訪をやってみようと閃いたら・迷いがなくなった。佐久市に重文が四件ほどある。そのうち三件を探訪した。
〇「新海三社(しんがいさんしゃ)神社」の東本社・本殿とその真後ろにある三重塔が重文。この神社、佐久・三庄12郷の総社だったそうで、その古風な境内の佇まいにボクは痺れた。
〇「旧・中込学校」。次の重文探訪の途次で発見。知識としてはあった。明治初年に小学校として造られた。その洒落た姿に痺れた。明治新政府が・国民の初等教育を如何に重視したか、この学校を見れば分る。学校跡で残ったものとして最も古く・且つ洒落ているので重文。
〇「駒形神社」本殿。一間社流造・杮葺。この手の小殿は、覆い屋に閉じ込められていて全然見えない惧れがあるが、この神社の覆い屋はそんな無体なことをしていない。覗けば全体像をはっきり捉えられた。
〇新海三社神社に行く途中、「龍岡・五稜郭」に出遭ったので見分。江戸時代末期の築城。銃砲戦の時代には何の役にも立たない代物。
このあと、野辺山高原・清里を経て・山梨県韮崎に出て、それから道を誤って身延街道を南下してしまい・途中から天を衝くような峠越えの本栖街道を辿るという大いなる無駄をして・富士宮市「大石寺」に行ったので・到着が午後五時ちょっと前になってしまった。本当は甲府南から直行で富士宮市に出る国道を選ぶべきだった。ボクは大石寺の所在地理を錯覚していた。30分以上の差が出た。夕暮れ時の半時間は大きい。大石寺の三門に着いた時はもう夕暮れの薄闇が下りていた。御影堂に着いた時は夕闇の中。大石寺には驚かされることが多い。先ずボクは・身延山久遠寺よりも奥山深くにあるものと思い込んでいたが、何と富士の裾野・富士山を大きく背景に取り入れて立地していた。伽藍の巨大壮大であることとそれらが整然と建ち並んでいる姿には圧倒された。塔頭寺院もしっかりと繁栄した姿で整然と境内空間の一画を埋め尽くしているのには目を瞠った。塔頭寺院が整然と生き残っている大寺はここ以外では法隆寺ぐらいだろう。講組織がしっかり根を張っているのだろう。夕闇深い境内で、ボクは熱心な信徒に折伏されかかった。ボクは・創価学会や日蓮正宗の折伏の手の内を知悉しているので適当に応対してその場を去ったが、普通断るのは難しいだろう。それはそうと・日蓮正宗が創価学会を破門してから久しい。あれだけの大伽藍は、創価学会の資金・組織力の支えがなければ整備され得なかったと思われるが、関係が断絶した今・維持費などはどうなっているんだろうか。日蓮正宗の力だけで今後持つのだろうか。それにしても今夕ひと時の折伏のさわりの中で示された正宗の僧侶・信徒の発揮するエネルギーには凄まじいものがあった。宗祖・日蓮の法統は二祖・日興が継いだが、日興は御本尊(板曼荼羅)と宝物一切を抱えて身延山を捨て・富士山の見える大石寺に法灯を移した。身延山とその一統は邪宗門だそう。浄土真宗・親鸞の教えなどケチョンケチョンでモノの数ではない。創価学会と日蓮正宗が対決・決裂した時はもの凄いエネルギーがほとばしったことだろう。ボクは自分の限られたエネルギーをこういう方面に散らせたくはない。日蓮の説く法華宗は・どうしたものか原理主義的で前衛的になる僧侶と宗徒を生み出して已まなかった。ボクはそういう方々とお近づきになりたくないなぁ、疲れるから。
〇野辺山高原・清里で、ボクはこの秋一番の黄葉・紅葉に出遭った。交通の安全に障るので写真を一枚も撮れなかったのが残念。
〇中央道・双葉SA(甲府の西)に入り込んでいる。今夜はここで泊まる。明日の帰路をどうするか、それが未だ決まってないのでここに居ると言ってよい。二股懸けている。

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