2010年12月31日金曜日

12/31(金)長崎平和公園・浦上大聖堂・爆心地公園、大浦天主堂・グラバー邸、出島オランダ商館、メガネ橋

長崎は雪。12月としては観測史上最大の積雪だそう。市内は大渋滞。探訪目標は一応走り回ったんだが、景色は雪に埋もれて本来の姿ではないでろう。いや、今日の景色が吾輩には生涯一度の一期一会の姿。忘れまい。もう既に大晦日だからこその酒を嗜んだ。記述する態勢からずれたが、今年の事は今年の間に語っておこう。以下、今日の探訪成果。
○「長崎平和公園」 平和祈念像の男性像だが、何度見てもポーズが不自然だなぁ、アンバランスが生み出す躍動は感ずるが。それと、顔と体型が明らかに日本人的ではない。制作当時はそれが時代風潮だったのかも知れないが時代は流転する、違和感がある、普遍的な姿ではない。
○「浦上大聖堂」 明治の世になり神父と信者が懸命に建てた大聖堂は原爆の獄火で消滅した。浦上司教区内12,000名の信者のうち8,500人が瞬時に昇天した。現在の信者数は8,500名。大聖堂の僅かな残滓が今「爆心地公園(松山町)」に移転されて立っている。
○「爆心地公園」 ここに到達したかった。紆余曲折を経て遂に到達。この上空500mで人の頭上を狙って核分裂の業火が放たれた。吾輩は思っている、米大統領は相手が日本人だから原爆を投下した、白人都市の頭上には決して投下しなかったろう。
○「大浦天主堂」 国宝だそう。
○「グラバー邸」 雪に閉じ込められて色彩を失い景色が死んでいた。色彩を回復すれば多分絵になる景色。グラバー邸の保存状態は頗る悪い。併設の伝統工芸館は好い。長崎くんちの実物にお目にかかれる。
○「出島オランダ商館跡」 出島は遠い昔に埋め立てられて今はその面影は全くない、市街地に囲まれて単なるその一部化。それが、扇形の出島の南縁(海側)の石垣の一部が掘り起こされていた。陸側の石垣は運河状の川に面して今も残されている(と見られる)。それから見ると、出島は小さかった。
○「メガネ橋」 諦めかけていたがエイヤッとハンドルを切ったらぶち当たった。沢山架かっている石橋の一つ。川面の中央まで行きる飛び石があったので活用。橋脚の二重の半円が川面に反映して見事なメガネを形成、絵になった。
この後長崎を離れた。離れるつもりだったが、大渋滞でなかなか脱出できなかった。それでも今夜の宿泊地・諫早ルートインホテルに着いたときは未だ陽があったので諫早湾干拓水門に向かった。道中「雲仙岳」が西日に照らされている絶景に出逢って撮影した。水門の方は干拓堤防道路にちょっと足を踏み入れただけで帰ってきた、水門にまで至らずに。
悲しいことがあった。セレナをバックさせたとき、後部の左角てっぺんを凹ませた、塗りも剝げ落ちた。それを目で見たとき、ズキンと心が痛んだ。運転中もその傷を思うとズキズキ心が痛んだ。セレナは最早吾輩の体の一部になっている、吾輩の足の拡張。足を傷めて心痛まぬ者はない(/_;)。これで今年の流浪の旅の報告は終わる。それではまた来年(^O^)/元旦は「吉野ヶ里遺跡」の探訪から始まると思われる。

12/30(木)、博多湾・元寇防塁遺跡、唐津・虹の松原、呼子港・名護屋城、伊万里・鍋島藩窯集落

古賀SAで目覚め。福岡ICを出て福岡都市高速で糸島半島の付け根の今宿へ。

①、元寇防塁遺跡を探訪。毘沙門山の近く。防塁は砂浜に埋もれ松林に覆われていたが、そのうち100mほどが掘り出されていた。往時博多湾の海岸線一帯30kmに亘って石積みの防塁が築かれた。鎌倉の執権「北条時宗」の命を受けて九州の御家人達が分担して築いた。健気な程の国防意識。吾輩が見分した防塁は糸島半島付け根の毘沙門山から半島先端の山までの間の浜辺3kmだが、これは薩摩・大隅の御家人・島津氏が築いた。

②、唐津へ。「虹の松原」を走り撮影するのが目的。日本三大松原としては「三保ノ松原」「気比の松原」そしてこの「虹の松原」を挙げるのが普通。三つとも探訪済み。

③、呼子港を探訪。呼子は湾入の深い地形に恵まれている上に、湾口に巨大な「加部島」が立ちはだかって風浪を遮断して呉れている。「加部(かべ)」は「壁」の謂いだろう。自称日本三大朝市通りの小路を歩いたが‥‥

④、名護屋城を探訪。呼子大橋が眼下に見える。秀吉が朝鮮出兵のため僅か半年で築かせたというが、巨大。霙が降る中、大手門・三の丸・本丸・二の丸・搦め手門と隈なく探訪。本丸天守閣跡から遥か水平線に「壱岐」と「対馬」が見える。確かにうっすらと見えた。そのときは寒波が襲来し烈風が吹き荒んで城壁跡に立っていることも至難で指もかじかみシャッターを切ることができなかった。一瞬のチャンスを失った後は、遥か洋上は寒風が吹き荒れ巻き上げられた海水と雪模様に水平線が閉ざされてもう島影は消え果てた。それにしても鬼哭シュウシュウたる名護屋城の天主閣址に、ただ独り雪の舞う烈風に翻弄されながらも踏ん張って水平線遥かに見えるはずの壱岐・対馬にレンズを向け続けている吾輩の姿は、我ながら鬼気迫るものがあった。そのとき偶々その光景を目にする人がいたら、本丸天守閣跡に亡霊が出たと思って逃げ去っただろう。城から戻る途中で考えた結論は、この巨大で不落の城塞が必要とされたのは、朝鮮半島からの逆襲に備えるためでは決してない。全国から武将を総動員してここ名護屋に結集させるに当たり、喜んで来る武将は一人もいない、武将らが密謀し反旗を翻す惧れがある、その恐れに備えてこの城塞の中に陣取る秀吉に謀反を企てても詮方ないことを周囲の山々に布陣する諸将らに目にモノ見せておく必要があったのだということ。

⑤、伊万里の鍋島藩窯(はんよう)集落のある大川内山へ。伊万里市街に入った時は藩窯集落が何処に存在するのか全然見当がついていなかった。伊万里JR駅内のインフォメーションセンターのオバサンに訊いて初めて大川内山を知った。夕暮れ迫る中、大川内山の集落へ急いだ。そこには三十数軒の窯元が今も伊万里焼・色鍋島を焼いている。だが吾輩の想像していた窯元の焼物土塀が連なる家並はなかった。あれは、有田焼きの里の風景であったのか?

その有田に至る交差点を素通りして西彼杵半島の西海橋を目指した。その周辺にある道の駅で宿りするため。明日は大晦日。長崎に入り、夜は諫早のホテルで宿泊。

2010年12月29日水曜日

12/29(水)、海の中道・志賀の島、筥崎八幡宮

画像を追加広島県・安佐SAで目覚めたら外は積雪20cm。しかし除雪が行き届いていて走行にはさして支障なし。山口県との県境付近は雪模様で路面が険呑。それも県央に近づいた頃には雪など何処の世界の話だという雰囲気。北九州に入ったら、雪に埋もれているという北陸とは別世界。古賀ICで下りて海の中道を目指したのは午後1時頃か。「海の中道」伝いに「志賀の島」に到達。

①、念願の《金印公園》を探訪。『漢委奴国王』銘印が江戸時代中期に発見された所。発見場所は今となってははっきりしないが、諸般の資料を検討してこの地に特定したそう。実物大の写真で見ると金印は意外と小さい。実物は「福岡市立博物館」で常設展示されている。国宝。

②、島に「蒙古塚」があった。捕虜となった元軍兵の首を切った所だそう。元軍兵の大部分は高麗兵と江南兵だったから、捕虜も多分そう。

③、「志賀海神社」も探訪。島の小山の上に鎮座する。威厳のある神社。旧官幣小社。昔は願いが叶うと鹿の角を奉納したそうで、何と1万もの角が残されている。収納庫に溢れていた。

④、日暮れまでのひと時「筥﨑八幡宮」を探訪。境内の案内板を見ると三大八幡宮は「宇佐八幡宮」「石清水八幡宮」そして「筥﨑八幡宮」なんだそう。穏当な選定か。楼門に「敵国降伏」の額が高々と掲げられている。醍醐天皇の御宸筆だそう。

このあと小倉駅北口(新幹線駅)に駆けつけ、19:40頃、新幹線で来た妻と無事合流。今福岡IC手前の古賀SAに入り込んで晩食を摂り寝るところ。

2010年12月28日火曜日

12/28(火)、島根県立出雲古代博物館、出雲大社・稲佐の浜、長浜神社、石見銀山、物部神社

午前9時「道の駅・湯の川」発、9時半「島根県立出雲古代博物館」着。館を出たのが12時過ぎ、館の中が熱かったせいか途中でフラフラf(+_+)。面白かった!圧巻は何と言っても荒神谷・加茂岩倉両遺跡出土の銅剣・銅鐸・銅矛の本物の全点展示\(^o^)/荒神谷遺跡出土の銅剣358本が整然と陳列されている姿を想像してみ給え、荘厳なもんだよ。加茂岩倉遺跡出土の銅鐸34個が一団に展示されている姿も荘厳。中にバワ―ショベルで酷く傷つけられているのが23点あって心痛むが、考えてみればバワ―ショベルによる土木工事がなければ発掘されなかったんだから必要な犠牲だったかも。銅鐸を鳴らしてみて下さいコーナーがあったので鳴らしてみた(*^^)v想像していた通りの好い金属質の響きだった。出雲大社の境内から巨木三本を合わせて一本の柱に仕立てた遺跡が三本分発掘されたが、その巨柱を前提に5人の建築家に本殿を設計させた模型が五体展示されていた。楽しい見ものだった。博物館の後は《出雲大社》へ。雨(T_T)。姫路城と同様、本殿とその周囲の社殿の大修理中で巨大な立方体が中心部を席巻しているばかり。まっ、出雲大社は5度目ほどの訪問だから別にどうでもいいけど。「稲佐の浜」の写真を撮るのが大事な目的の一つだったが、寒冷前線が通過中と見えて雷光雷鳴が頻りで凄まじい景色になるわ、暴風雨の襲来で濡れ鼠になって震え上がらせられるわで写真どころでなかった。稲佐の浜は、大国主命が国譲りをして独り悄然とこの浜から海の底に消えて行ったという、古代神話のクライマックスの舞台。大国主命もこんな凄まじい破天荒な日にはさすがに海に入るのを嫌がったんじゃないか。きっと晴れた日を選んで青い波静かな海に入って行ったと思う。稲佐の浜から南に向かって「長浜」が長い弧を描く。ここは「国引き神話」の舞台。長浜の南端に「長浜神社」がある。そこを探訪して漸く長かった吾輩の出雲神話の世界の旅行が完結となる。島根半島(旭日の三保神社、日没の日御崎(ひのみさき)神社、神等去出(からさで=good bye,gods)の佐多神社))は昨秋探訪済み。風雨の中手こずったが地理勘を頼りに何とか長浜神社に到達。午後2時、いよいよ大田市に向かった。目指すは《石見銀山》。3時過ぎに銀山近くに辿り着いたが、ここの観光は普通の段取りじゃ出来ないことが判明。冬季は「間歩(まぶ)」=坑道の入口は午後4時に閉ざされる、しかもPから「間歩」までは徒歩でしか行けないがその行程は3km近く。明朝再訪することにして大田市の海岸線にある道の駅に戻ることに。戻りがけ、行き掛けの駄賃とばかり石見一ノ宮「物部神社」に立ち寄った。もう夕暮れの中で境内を歩き回り写真も撮った。さすが一ノ宮といった風情。物部神社を立った時はもう5時過ぎ、宵闇に覆われていた。飲食料の調達にコンビニに寄った。不図真っ先に新聞を手に取り日付を確認、して、ビックラこいた(o)(>_<)28日」の文字。さすれば明日は妻と再会を契り合った《29日》ではないか。石見銀山どころではない。吾輩は買物もせずおっとり刀で浜田市に向けてセレナを駆った。途中江津から山陰道に乗り浜田JCTから浜田自動車道に入った。浜田自動車道は無料化試験実施中で気を好くしたが、途中からみぞれ模様。千代田JCTから中国自動車道に入り広島JCT手前の安佐SAに入ったのが午後7時半。ここで野菜の付いた定食を摂った。ここなら明日の妻との再会の約束はバッチシ、ということで今夜はここに泊まることにしたが、厭だねぇ、車外はしんしんと雪が降っていて既に地面は白くなっている。積るだろうなぁ、ここまで来ておいてよかったよ。それではまた明日(^O^)/

12/27(月)、加茂岩倉遺跡、八岐大蛇公園、須佐神社、万九千神社、御井神社

今朝は08:30まで寝ていた。道の駅・湯の川を出立したのが10:00、ちょっと出遅れ。氷雨が時々ちらちら降るような天候。先ず目指したのが出雲街道・国道54号線を南下して

①、《加茂岩倉遺跡》。ほど近かった。発掘現場は街道から別れた谷筋を深く入りさらに枝の谷に入って見上げるような小高い山肌にあった。登ると息が切れた。出土した状態そのままに銅鐸のレプリカが置かれていた。滋賀県野洲市の大岩山古墳の出土数を遥かに上回る34個の銅鐸がまとまって出た。大岩山銅鐸博物館は今秋に探訪済み。レプリカには雪が薄く積っていたので吾輩の手で払って差し上げてしっかり撮影。現地に休憩所兼ガイド所があってそこで聞き捨てならない話を耳にした。国宝に指定された銅鐸達は国立博物館に収蔵されているのかと質問したら「いや、国立博物館じゃありません。出雲大社の隣にある島根県立博物館で展示されています」だと。明日、県立博物館に行って銅剣・銅鐸・銅矛の本物を見学して来よう、絶対!

②、次に目指したのが出雲街道沿いの「神原(かんばら)古墳遺跡」。ここから三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出たが、これが只者ではない。卑弥呼が魏に朝貢した年に当たる年号が鏡の銘に刻まれていた。この遺跡には辿り着けなかった、釈然としないなぁ(+_+)

③、出雲街道をさらに南下して、木次(きすき、と読む)で「八岐大蛇(やまたのおろち)公園」と「八本杉」と「斐伊神社」を探索したが、いずれも失敗。となりかけたとき、旧市街地の細い路地に入り込んで脱出を図っていたら、小さな案内標示に「八本杉→」の文字が。全くの偶然f(~_~;)。吾輩の執念もちらっと関与、公園発見のため三度目のUターンを図っていた。大蛇(おろち)の八つの頭を埋めた所にスサノオノミコトは八本の杉を植えて大蛇の荒魂の鎮めにしたそう。その「八本杉」発見に気を好くして「公園」発見に最後の努力。それまで現地でウロウロした結果を検討してあと一縷の望みがありそうな方位にセレナを駆った。距離を過ごした感がして諦めかけたら、あった、「八岐大蛇公園→」の標識が。着いて見ると拍子抜けするほど小さな公園、猫の額とはまさにこのこと。石碑の字面によると「スサノオノミコトが高天原(たかまがはら)から追放されて出雲の国に下り立ったが、まさにこの地点で斐伊川を流れてきた箸を拾い、それで上流に人が住んでいることを知った。遡って行ってアシナヅチ・テナヅチ夫婦とその娘クシイナダヒメに出逢い、ヤマタノオロチのことを聞く。既に七人の娘が大蛇に食われ、最後に残ったクシイナダヒメも餌食にされようとしていると知って大蛇退治を決意した。ちゃっかり婚約もした」。「斐伊神社」はもうどうでもよかった。「八本杉」の場所の説明文に「ここは斐伊神社の境内」と書いてあった。社殿は全くなかった。ここが神社の飛び地であったところでもうそれでよかった、吾輩は伝説の地を探索したかった。

④、出雲街道と別れて東して大東町に近い山中で「佐世(させ)神社」を探索したが完全に失敗。スサノオノミコトが頭に生えた木を抜いてこの地で村人に「挿せ」と言った神話を由緒とする神社なんだが。現地で幾ら捜索しても手掛かりが一切ない。最後は交番で訊こうとしたが、地図上あるべき交番までも現地ではない。狐につままれてまた木次に戻り、また出雲街道に入って南下し今度は西して県道伝いに

⑤、須佐神社を目指した。奥山の峠を越えて行く。須佐神社は堂々たる案内標示を有していて有難かった。スサノオノミコトを祭神とする。この後県道を北上し、出雲市街で国道9号線に入り、最後の神社探訪に挑戦。

⑥、先ずは「万九千(まくせ)神社」「立虫(たちむし)神社」。いずれも式内社。小さな案内標示を目敏く見つけ何とか到達。二つの神社が同じ境内にある。万九千神社では、神在月(かみありづき)に出雲に参集した八百万(やおよろず)の神を御送りする「神等去出(からさで)」祭儀が厳修される。島根半島の「佐多神社」でも「からさで祭」がある。もう一社、東出雲で昨日発見したがどこだったかf(-_-;)立虫神社は元斐伊川の中州にあったらしい。

⑦、最後は夕暮れ迫る中「御井(みい)神社」を探索。何とか勘でそれらしき旧道に入り小さな案内標示を発見したが、その先が一筋縄で行かない。今日は小神社の探訪の難しさをつくづくと味わった。行きつ戻りつを繰り返し、最後には「400m先左折」の400mをセレナの距離計で正確に測って小道に入り、それでもその先まだまだ苦労して遂に到達。宵闇が下りていた。「御井」は「三井」の謂い。越後のヤガミヒメ(八上姫)が大国主命の子を身籠ってはるばる出雲に会いに来たが、正妻スセリヒメに遠慮して会わずに戻る途中で出産した。そのとき三つの井戸を掘って赤ちゃんに産湯をつかわせた、その場所がここだという伝説を由緒とする神社。その神話には続きがあるが長くなるので後日のこととして、吾輩は神社の近くにあるらしい三つの井戸を夕闇の中で探索してみた。一つ目「生井(いくい)」発見。二つ目「福井(さきい)」も発見。三つ目の「綱長井(つながい)」は残念ながら発見できず。

そして今夜もまた道の駅・湯の川に居る。晩食もここの食堂で摂った。美味しくて値ごろの焼肉定食、親切。明日は先ず「出雲大社」と「島根県立博物館」を訪れる。隣の大田市(おおだ、と濁って読む)も見所がある。世界遺産《石見銀山》!!

12/26(日)、月山富田城、熊野大社・八重垣神社等、荒神谷遺跡

吾輩は今朝、雪化粧の道の駅でセレナと二人だけのお目覚め。トラックのエンジン音が一晩しなかったので、かえって熟睡できたかも。

今日探訪した名所旧蹟を順番に列挙すると、

①、巌倉寺 関ヶ原の役後、富田城の主となった堀尾吉晴の墓があった。

②、月山富田城 雪を踏みしめて山中御殿跡の大郭まで上がった。その先は、七曲がり・三の丸・二の丸・頂上の本丸と抜いて行く本格的な登山になる。小谷城登攀よりも急峻なよう、あのときはつらかった、死ぬかと思ったf(~_~;)。それに今回は足元が雪ときて条件が悪い。で、引き返すことにf(^^ゞ山麓を駆け周って山容を写真に収めた。尼子晴久の墓に行き着いた。山中鹿之助の銅像も発見、絵になっていた。

③、熊野大社 出雲の国一ノ宮

④、須我神社 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して人身御供にされかかったクシナダヒメを救い彼女と夫婦になって住んだ地がスガだそう。

⑤、八重垣神社 奇稲田(クシナダ)姫の壁画が有名。元は本殿の壁画だったが、今は別館の収納庫に保存されている。それを有料で拝観できる、勿論拝観した。本などで見る通り原画は殆ど剝落していて保存状態は最悪。それでも国指定重要文化財、保存状態が良好だったら完壁に国宝。大版写真を買った。

⑥、神魂(かもす)神社 大社造りの本殿は国宝。境内は神韻縹渺たる趣きが充満。驚いたのは、露地の儀式場に二本の竹が立てられそれに白い御幣が括り付けられているのを見て一瞬アイヌのイナウと見紛うたこと。

⑦、揖夜(いや)神社 ここでも白い御幣の集団をアイヌのイナウと見紛うた。

⑧、荒神谷遺跡博物館 古代の銅剣が三百数十本まとまって出土して驚かして呉れたのがこの荒神谷遺跡。今日の眼目はその《荒神谷遺跡博物館》を探訪すること。博物館は期待に違わなかった。銅剣とその後発掘された銅鐸・銅鉾が出土したときの状態さながらに本物然と寸分違わぬように展示されていた。まさか展示物は実物ではないだろうが、どう見ても本物に見えた。

こうして今日は出雲国の主に東半分を駆け周ったという感じ。明日は西半分を探訪する。ここは「道の駅・湯の川」。宍道湖の西端に位置する。今夜はここで宿泊。それではまた明日(^O^)

2010年12月25日土曜日

12/25(土)姫路城、そして出雲国へ転進

今日は午前中姫路をウロウロと。先ず姫路城を探訪。すんなり辿り着いたが、何と天守閣が補修工事中で巨大な工事用立方体で覆われていた。2009年から始まり完工するのは5年後の2014年だと。その時はまた見学に来ないといけないが、生きておるか死んでおるかf(-_-;)それが問題だ(`´)(/_;)。自称「67歳で癌で死ぬ男」、あと3年しか余命がない。話は姫路城だが、天守閣を奪われていても絵になっていた。さすが「国宝・姫路城」。規模が雄大で、形・構成が変化に富む。天守閣が白日の下に輝きを取り戻したらどんなに素晴らしいことかッ\(^o^)/目に浮かぶ!(^^)!仕方がない、寿命を3年ほど延ばす運動をしよう。姫路城のあと「書写山・園教寺(えんぎょうじ)」に登ることに。姫路城の西北に15kmほど行った書写山の山頂にある。「西の比叡山」と称される天台宗の別格本山。山麓までは辿り着けたが、今回はそこまでで終わり。山頂への参道は徒歩でしか登れない。ロープウェイが運行しているが、運悪く「点検整備の為12/1712/27の間運休」だそうでf(*_*; 三百数十mの山頂を徒歩で極めるのは、吾輩の心臓に好くない。書写山参詣は次回以降に持ち越し。ここから旅程をあっさり変更。備中一円を探訪するのを取り止めて一気に出雲の国に向かうことに。岡山一円は名所旧蹟が多い、造山(つくりやま)古墳・吉備津彦神社・鬼が城・備中国分寺・高松城&水攻め痕・後楽園等々。それらは何やかやと一度は訪れている、写真が整備されていないのが不満なだけ。とにかく今回の旅での優先順位が気紛れで低落した。山陽道を見限り、中国自動車道に佐用ICから入り、津山・美作を経て米子自動車道に乗り換えたら雪模様になった。普通タイヤは通行禁止。蒜山高原から道路が白くなった。米子から山陰自動車道道無料区間に入って西の方・安来へ。安来ICを出たのは午後5時頃でもう暗かった。安来から中国山地に向けて広い谷に入って行くと今夜の宿の「道の駅・広瀬富田(とだ)城」がある。あるはずだったが、行けど探せど見当たらない、道の駅が見当たらないなんてそんなことがぁ‥‥。ウロウロオロオロと彷徨ううちに諦めかけた午後6時半、まさかと思った真暗闇の駐車場に入り込み、看板をセレナのライトで照らしたら「道の駅‥」の文字が確認できた。他に1台の車もいない。こんなに寂しく暗い道の駅にお目にかかったことはない。が、確かに公衆トイレが目の前にある。ウロウロ彷徨ったお蔭で、ここが歴史好きにとって垂涎の土地であることを知った。「月山・富田(とだ)城」がまさにそこに在る。戦国時代末期、山陰道の尼子氏と山陽道の毛利氏が雌雄を決すべく激闘を重ねたが、その当時尼子氏が本拠としたのが「月山富田城」。山頂に天守閣が築かれライトアップされているのが遠望できる。付近には尼子晴久その他尼子一族の墓がある。何と!戦国時代を彩る忠勇無双の豪傑・尼子の重臣・悲劇的英雄《山中鹿之助》の銅像まであるそう。さらに「足立美術館」も極近い。明日の予定は多分大幅変更になる。夜が明けたら雪に埋もれてなければいいんだがf(>_<)それにしても静かな夜だなぁ、トラックのエンジン音がしないとかえって変f(~_~;)。それでほはまた明日(^O^)

2010年12月24日金曜日

12/24(金)、西宮神社、生田神社、湊川神社

今日(金)の旅程。
①、西宮神社(えべっさん)。名神を西宮ICで下りた。神社の探索は難しくなかったが、駐車場の確保に苦労させられた。神社の超デカイ案内板に「駐車場がありませんので電車等の公共交通機関をご利用下さい」と大書してあったので民間のPを探した。境内に入ったらちゃんと参拝者用の駐車場があった。帰りがけに案内板をよーく見分したら「年末年始の参拝は」と条件付きだった。無人の駐車施設(車の下で逃走防止用の金具が跳ね上がって牙を剝くヤツ)の世話に初めてなった。勝手が分らず帰りに無事脱出できるだろうか心配だったが、産むは案ずるよりも易し。
②、生田神社。神社そのものの探索に苦労した。神戸三宮駅の近くにある。繁華街のど真ん中。古いカーナビを頼ったらはじめ「生田神社・兵庫宮」という紛らわしい小社に着いた。そこでどうして諦めなかったのか、分らない。神社に辿り着いて見ると駐車場がありそうもない気配だったのでやはり民間のPにセレナを停めた。境内に入るとここもやっぱり立派な駐車場が備わっていた。ここの民間Pも逃走防止用の金具が牙を剝くヤツでしかも西宮のと違っていたのでちょっとドキドキしたが、無事に脱出。
③、湊川神社。廻り合わせ良く到達。ここの境内には駐車場などという下世話なものはない。何せ《大楠公》を祀る《別格・官幣大社》なのだ。明治の御世に明治天皇の肝煎りで創建された。が、境内の地下に公営の地下駐車場があって有難い。この駐車場も無人だが、遮断機方式の慣れたヤツで安心。境内の奥に大楠公《殉節の地》がある。楠正成主従70余名が自刃して果てた聖地。
④、明石大橋。本当は明石大橋などに寄らず神戸から一足飛びに姫路に入り今日中に姫路城を見学する予定だったが、カーナビがセレナよりもロートルで訳が分らんうちに神戸で高速に乗り損ねてそのままズルズルダラダラと国道2号線伝いに明石にまで来てしまった。明石に近づくと大橋の橋脚塔が厭でも彼方から見えてくる。大橋の袂に「舞子公園」があったので入って明石大橋を真下から撮影。ここの駐車場は無人遮断機方式。
 その後さらにズルダラと加古川・高砂を通過してしまった。姫路の東で日が暮れたが、山陽道はどこも都会で道の駅(田舎に多い)はありそうもないので姫路城探訪を今回は断念することにして姫路東ICから山陽自動車道に上がり込んでしまった、どこかのSA・PAで泊まって明日は岡山ICで下りて吉備国(備中)一帯を探訪する腹つもりで。ところが姫路西ICの直前にPAがあった、白鳥PA。24Hのコンビニがあり、電波も一発で通じた。気分を好くしてここに泊まることに即決したが、明日の選択肢に姫路城探訪の目を残す魂胆も無きにしも非ず。どうなることか、それではまた明日(^O^)/

2010年12月23日木曜日

2010/12/23(木)、年末年始の旅に出た。近江神宮、伏見稲荷大社、石清水八幡宮、山崎合戦場

 昨日(22日・水)から旅に出た。予定では今日(天皇誕生日)からだったが、ひょんなことで早めた。もっとも昨日Inter Netで旅行計画を立てていたら出遅れて、宿泊地は名神・多賀SAになってしまった。寝るとき雨が降っていた。昨夜司馬遼太郎の「街道をゆく 島原半島・天草の諸道」を遅くまで読み、録音した自分の歌声を聞きながら寝た。目が覚めたときは未だ暗かったが、続きを読んでいたら直ぐ夜が明けた。買い置きで朝食を済ませて出発したのが08:00だったか。
 先ず「近江神宮」を目指した。その趣きは《大津京》の位置を探索するため。神宮は簡単に見つかった。境内の由緒書を読むと「大津京錦織(にしきこり)遺跡」の近傍に創建とある。近くにJR湖西線「大津京駅」があるし、見当はほぼ当たり。意外だったのは昭和15年の創建、昭和天皇の強い思い入れによるそう。祭神は《天智天皇》。唐・新羅連合軍に追い詰められた百済に救援軍を派遣した天皇。黄海・白村江で大敗し、勢いをかった連合軍に日本も侵略されるという危機感を強烈に抱いて北九州から瀬戸内・畿内にかけて防備の城を築き、都も大津京に遷した。昭和15年と言えば太平洋戦争に突入する前夜。天智天皇と昭和天皇が置かれた時代状況は符合していた。
 次に念願の《伏見稲荷大社》を探訪。この大社はとにかく想像力を掻き立てる。見届けないと収まりがつかない。行ってみて分ったことは、この大社は背後の《稲荷山》が御神体。この山は、麓から山頂まで雑多な神々で満ち満ちている。山に住んだ古狐の数ほどに神が居る、という感じ。それらをひっくるめて大雑把に「稲荷大神」が束ねている。日本人の一つの定義がここにある。朱塗りの「千本鳥居」は凄い。あれは丸木を連ねたアーケード、それが麓から山頂まで続く、壮絶。百聞は一見に如かず。セレナに戻った時は12:30。
 さらに《石清水八幡宮》を探訪。この宮には一度参拝している。あれは7、8年前、不安定型狭心症で緊急入院した数ヵ月後のこと。事務長Y氏の運転で大阪地裁に出張した帰りに寄った。吾輩は冠動脈にステントを装着して初めて山頂を目指すことに挑戦した。脚はきつかったが、心臓は大丈夫だった。それが確認できて嬉しかった思い出がある。今回再挑戦に及んだのは別に心臓の具合を試そうというのではない。山崎の合戦の時、大和国の軍勢を率いた筒井順慶が「洞が峠を決め込んだ」その峠がこの石清水八幡宮の鎮座する山の直ぐ続きの山にあると聞いて地図をよく見ると、成程今回の旅で探訪しようと思っている大山崎(山崎の合戦場)をまさに見下ろす地位に神社があったから。もっとも実際にはここの山から大山崎は木立が輻輳して邪魔になり見えない。
 今日の最後は「大山崎町歴史資料館」15:40着。閉館は16:30だそう。ボランティアの説明が付いた。吾輩の関心は大山崎の地勢が有する大会戦の予定戦場たるべき特性と対峙した秀吉・光秀両軍の布陣状況を知ることのみにあったんだが、大山崎の古代から近世に至るまでの歴史を学ぶことになった。それはそれで有意義だったんだが、時間がぁ‥。後鳥羽上皇ゆかりの「離宮八幡宮」の知識を得た。桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる、そこに大山崎がある(大昔は小椋池で合流していたそう)。天王山が淀川に迫り平地を狭隘化している、そこが大山崎。淀川を挟んで天王山と向かい合う位置に石清水八幡宮が鎮座する山があり、その山の続きに「洞が峠」がある。京都盆地と大阪平野が大山崎でくびれて首の皮一枚で繋がっていると想像すればいい。長岡京の南端は大山崎にかかる。ボランティアが口にした「小泉川」という名を吾輩は聞き逃さなかった。訊くと小さい川だという。この川を挟んで秀吉と光秀の両軍が南と北に布陣して対峙した。秀吉軍4万、光秀軍1万6000。午後4時頃に戦闘が開始され2時間ほどで決着がついた。吾輩は夕闇迫るなか早速「小泉川」を探索した。なんなく見つかった。この川に対し垂直方向に北上してみると「勝竜寺城址」まで見つかった。光秀が敗軍をまとめてそこに一旦籠ったが、深夜そこから近江坂本城に向けて脱出を図り、途中山科の小栗栖で農民の竹槍にかかったという城。城址は今公園になっている。
 城址公園の駐車場は17:00に閉まるというので早々に切り上げて名神高速大山崎ICを目指した。すっかり暗くなっていた。今、吹田PAに居る。電波状態も好いし、セレナの中で夕食も済ませたし、今夜はここで泊まる。「街道をゆく」の続きを読む。明日は西宮ICで下りて「えびすさん」の西宮神社の探訪から始める。それではまた明日(^O^)/

2010年12月20日月曜日

11/22(月)比叡山延暦寺東塔無動寺谷・大乗院、玉照院

明王堂の石段を下り護摩堂を過ぎると直ぐに「大乗院」に着く。「親鸞聖人御修行旧蹟」の石碑が立つ。親鸞の修行地は、西塔の「担い堂」の隣にもある。「聖人・上人(しょうにん)」とされているということは、親鸞は戒壇院で受戒しておらず、正式な僧として認許されていないことを意味する。私度僧という訳。法然も「上人・聖人」と称されるが、彼の場合は戒壇院で受戒した歴とした正式僧。しかしその地位を返上して山を下り黒谷に住した。


さらに下ると直ぐに「玉照院」に至る。道はここで途切れる。雨中ここまで辿って来るものは誰もいない。


11/22(月)比叡山延暦寺東塔無動寺谷《明王堂》

この明王堂こそ「千日回峯行」の拠点

鐘楼と本堂
明王堂

明王堂から下る
下った先
見上げると、断崖絶壁の石垣から堂宇がはみ出ている
護摩堂らしい
「不動明王は、密教では大日如来が衆生救済の為示現されたる応化身で、顕教では釈迦如来の降魔の御姿である。衆生を苦しめる悪魔及び説法するも強情容易に信ぜぬ者を折伏の為変化して憤怒の形相を現し給うものである。右手には悪魔を断除する大智の剣を持ち給い、左手の索は方便の自在を示し又悪魔を捕縛する縄に譬う。大火焔の中に立たせ給うは一切の罪障三毒を焼滅する為の大智を示す。頭の結髪は信ずる者には奴僕となって其祈願を叶えしめるとの御誓願の御姿である。」
「此の明王堂の不動尊は特に顕密の総合として回峯行の御本尊で、法華経の常不軽菩薩の上求菩提・下化衆生の御姿で、御精神形体共全仏教の根本と考えられる」

11/22(月)比叡山延暦寺東塔無動寺谷

大講堂前から坂を下りて根本中堂に至る石段の頂上に出る、そこから根本中堂と反対側、延暦寺消防隊の前を通って無動寺谷へ向かう。下って行くとやがて坂本ケーブルの駅が見えてくる。
坂本ケーブル延暦寺駅
延暦寺駅の裏手に無動寺参道がある。鳥居は弁財天堂のものらしい。
参道を下って行くと‥

古い井戸がある。閼伽井
弁財天堂に至る分岐道

弁財天堂

11/22(月)比叡山延暦寺東塔《戒壇院》

最澄・伝教大師が悲願とした国立戒壇(授戒し正式な僧侶を成立させ得る所)は、彼の死の直後に勅許された。これにより新興の比叡山は南都・東大寺と対等の地位を得た。延暦寺で最重要の寺院。

11/22(月)比叡山延暦寺東塔

延暦寺東塔・講堂。前回訪れたときは濃霧の中。今回も初めはまたも濃霧の中、それが無動寺谷を探訪して戻ったら晴れてきた。ので撮影。


鐘楼。この梵鐘は鳴り続ける、観光客によって鳴らされ続ける。

文殊堂


文殊堂から見た根本中堂

11/22(月)比叡山延暦寺東塔・法華寺等院

大講堂前から根本中堂と反対側に行くと「法華等持院」がある。立派な石段を上る。
と、広い境内が開け極楽浄土世界が出現する。
阿弥陀堂
法華等持院・東塔。阿弥陀堂の真横。
法華等持院・東塔

2010年12月18日土曜日

11/22(月)比叡山延暦寺西塔「釈迦堂」

釈迦堂

釈迦堂の後ろに回ると「相輪とう」と「弥勒石仏」がある。
相輪とう
弥勒石仏

11/22(月)、比叡山延暦寺西塔「にない堂」

西塔「担い堂」。左「常行堂」と右「法華堂」が回廊で繋がっている。まるで天秤棒で二つの堂を担いだような姿なので左右併せて「担い堂」という。延暦寺の説明文では、武蔵坊弁慶が担いだので「担い堂」というのだそう。
左側の紅葉が敷かれた土地が親鸞修行地。右側の青苔の土地が「担い堂」敷地。

親鸞修行地。親鸞修行地は東塔無動寺谷の奥にもある
担い堂左側の「常行堂」
右側の「法華堂」

天秤棒の廊下の下を潜ると石段があり、それを下りると「釈迦堂」に至る。

11/23(火)滋賀県高島市「新旭水鳥観察センター」

琵琶湖岸で初めて絵になる所を発見、という感じ。ここは高島市の旧今津地区。
背景の山は奥琵琶湖の山々。右へ行くと賤ヶ岳。賤ヶ岳の合戦の時、丹羽長秀が秀吉に加勢するためここ今津の港から軍船を仕立てて賤ヶ岳の麓の海岸に押し寄せた。

今津の街が見える。コハクチョウが浮かんでいる。
オオバン。こやつは潜水する。
竹生島の近くを雁行するコハクチョウ
旧「木津港」の常夜燈
今津市街と比良の山並み
飛来した小鳥。つぐみか?

「新旭水鳥観察センター」
観察できる水鳥の群れ。200円で三脚付き望遠鏡と図鑑を用意してくれる。沖に見えるのは島ではなく水草の養殖施設、浮いている。