2010年12月31日金曜日

12/30(木)、博多湾・元寇防塁遺跡、唐津・虹の松原、呼子港・名護屋城、伊万里・鍋島藩窯集落

古賀SAで目覚め。福岡ICを出て福岡都市高速で糸島半島の付け根の今宿へ。

①、元寇防塁遺跡を探訪。毘沙門山の近く。防塁は砂浜に埋もれ松林に覆われていたが、そのうち100mほどが掘り出されていた。往時博多湾の海岸線一帯30kmに亘って石積みの防塁が築かれた。鎌倉の執権「北条時宗」の命を受けて九州の御家人達が分担して築いた。健気な程の国防意識。吾輩が見分した防塁は糸島半島付け根の毘沙門山から半島先端の山までの間の浜辺3kmだが、これは薩摩・大隅の御家人・島津氏が築いた。

②、唐津へ。「虹の松原」を走り撮影するのが目的。日本三大松原としては「三保ノ松原」「気比の松原」そしてこの「虹の松原」を挙げるのが普通。三つとも探訪済み。

③、呼子港を探訪。呼子は湾入の深い地形に恵まれている上に、湾口に巨大な「加部島」が立ちはだかって風浪を遮断して呉れている。「加部(かべ)」は「壁」の謂いだろう。自称日本三大朝市通りの小路を歩いたが‥‥

④、名護屋城を探訪。呼子大橋が眼下に見える。秀吉が朝鮮出兵のため僅か半年で築かせたというが、巨大。霙が降る中、大手門・三の丸・本丸・二の丸・搦め手門と隈なく探訪。本丸天守閣跡から遥か水平線に「壱岐」と「対馬」が見える。確かにうっすらと見えた。そのときは寒波が襲来し烈風が吹き荒んで城壁跡に立っていることも至難で指もかじかみシャッターを切ることができなかった。一瞬のチャンスを失った後は、遥か洋上は寒風が吹き荒れ巻き上げられた海水と雪模様に水平線が閉ざされてもう島影は消え果てた。それにしても鬼哭シュウシュウたる名護屋城の天主閣址に、ただ独り雪の舞う烈風に翻弄されながらも踏ん張って水平線遥かに見えるはずの壱岐・対馬にレンズを向け続けている吾輩の姿は、我ながら鬼気迫るものがあった。そのとき偶々その光景を目にする人がいたら、本丸天守閣跡に亡霊が出たと思って逃げ去っただろう。城から戻る途中で考えた結論は、この巨大で不落の城塞が必要とされたのは、朝鮮半島からの逆襲に備えるためでは決してない。全国から武将を総動員してここ名護屋に結集させるに当たり、喜んで来る武将は一人もいない、武将らが密謀し反旗を翻す惧れがある、その恐れに備えてこの城塞の中に陣取る秀吉に謀反を企てても詮方ないことを周囲の山々に布陣する諸将らに目にモノ見せておく必要があったのだということ。

⑤、伊万里の鍋島藩窯(はんよう)集落のある大川内山へ。伊万里市街に入った時は藩窯集落が何処に存在するのか全然見当がついていなかった。伊万里JR駅内のインフォメーションセンターのオバサンに訊いて初めて大川内山を知った。夕暮れ迫る中、大川内山の集落へ急いだ。そこには三十数軒の窯元が今も伊万里焼・色鍋島を焼いている。だが吾輩の想像していた窯元の焼物土塀が連なる家並はなかった。あれは、有田焼きの里の風景であったのか?

その有田に至る交差点を素通りして西彼杵半島の西海橋を目指した。その周辺にある道の駅で宿りするため。明日は大晦日。長崎に入り、夜は諫早のホテルで宿泊。

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