男山・石清水八幡宮を下って目の前の桂川・宇治川・木津川三川合流点の下手の淀川を渡ると、そこが大山崎。山崎合戦古戦場に近い。目当ては「大山崎歴史資料館」、そこに山崎合戦の資料があると踏んでいる。吾輩の関心は、古戦場の正確な位置範囲の特定。淀川沿いの京阪新国道バイパスの大河の如き交通量に圧倒されて旧国道に入る口がなかなか見い出せない。資料館は旧国道沿いにあると踏んでいる。ようよう旧道に入り込んだが、これがまた狭くてくねって驚くほどの旧態。この街道が京阪の幹道だったとは信じ難い。淀川水系の水運を利用した船便が京阪間の交通の主力だった事情がよく理解出来た。資料館は旧街道沿いにあると見当をつけた吾輩の勘は当たった。商工会館の建物の中にあった。入館料200円。ボランティアの解説がついた。肝腎の山崎合戦場の資料と解説は最後に僅かだけ。しかし秀吉軍と光秀軍が「小泉川」を挟んで対峙したとの一言は聞き逃さなかった。合戦場を特定するための貴重な情報。
商工会館・資料館の駐車場の真後ろに控える天王山。中央の車が「セレナ」「小泉川」を探索せずに済ますような吾輩ではない。
これが「小泉川」。昔通りではないだろうが、川の規模は推測できる。秀吉軍と光秀軍はこの小河川を挟んで布陣しその日のうちに決戦し二時間ほどで勝負が決した。
小泉橋の袂から天王山方面を振り返る。この方面に秀吉軍4万が充満した。天王山の向かい側には淀川が迫っていて、街道筋は狭隘。
小泉川を渡り光秀が布陣した方面に入る。そこは長岡京跡の一部。走りながら、光秀が敗軍をまとめて籠城しようとした「勝龍寺城」に近づいたことを感じたので適当な交差点でエイヤッとハンドルを右に切ったら、何と勘がピタリと当たって「勝龍寺城址」に行き着いた。思わぬ御褒美に与ったというところ!(^^)!城跡は想像通り大規模なものではない。翌朝、秀吉の大軍の勝ちに乗じた猛攻に到底耐えられないことは明らか。光秀が夜陰に紛れて脱出を図った心理は理解できる。
城跡に立つ案内板から抜粋。「勝龍寺城は南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて細川頼春が1339年に築城。城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえ得る交通の要所に築かれている。‥‥戦国時代になると織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が1571年に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。1582年の山崎合戦では明智光秀が城に入り羽柴秀吉との戦いに敗れ落城した。この城は、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)の許に嫁いだ所でもある‥‥」
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