名護屋城、この城の名に馴染んでいる日本人は少数派だろう。ましてこの城の実態を知る人は滅多におるまい。この城は日本史上、過小に扱うことを妥当とされている。名護屋城は、豊臣秀吉晩年の誇大妄想が生み出した巨城。秀吉は日本全国を制覇した勢いを駆って大明国をも制覇しようと目論む。朝鮮半島で足踏みしようなどとは露も思わなかった。確かに当時の日本の軍事力は世界を征服できる体のもの。鉄砲は信長の時代に既に織田軍だけで3,000丁揃えていたという。秀吉の発動した文禄・慶長の役当時、全国で動員できた鉄砲数は万を数えたろう。しかも日本は戦国時代を潜り抜けたばかりで荒ぶる精神は戦国時代のまま。朝鮮半島を一気に蹴散らし大明国の首都まで攻め上り蹂躙することは軍事的には可能だったろう。しかし玄界灘・対馬海峡を渡った派遣軍はわざと足踏みするかのように進軍を停滞させた。進撃すればするほど、日本への帰還が困難になる。どの軍団も先陣を切ろうとしなかった。戦意は初めから無かった。所詮勝てない戦争だった。この道理が見えなくなっていた秀吉は、もはや誇大妄想に取り憑かれたただの老人。韓国・朝鮮から見ればこの出師は不条理そのもの。一方的にただ被害者とされた半島側ではこの出師を「壬辰(イムジン)・丁酉(チョンユ)倭乱(ウェラン)」と呼び、民族の悲劇として永遠に忘れまいと努力している。韓国人・朝鮮人がはっきり日本人を嫌う一因になっている。今も豊臣秀吉は韓国人・朝鮮人から徹底的に憎悪されている。名護屋城は日本史上なかった方がよいと暗黙に思われことさら軽視(無視)されている。だが、日本人は忘れても、韓国人・朝鮮人は多分永遠に忘れまい。それほど深刻な足跡影響を東洋の歴史に残してしまった城であることを日本人は認識せねば。そしてこの城の実態たるや、巨大壮大。築城当時、大阪城に次ぐ規模を誇り(約17万㎡)、天守閣のある本丸を中心に二の丸・三の丸・弾正丸・遊撃丸・東出丸・山里丸・水手郭などを要所に配置して難攻不落。名護屋城周辺に配置された諸大名の陣屋の総数は120余箇所に及んだ。たった一人の人間の狂気が想像を絶する魔力をもって当時の日本国を麻痺させ、肥前の小半島の上に旋風を巻き起こしたとでも言うしかない。名護屋城の本丸からは壱岐、対馬が手に取るように見える。五層の天守閣の高みからは天候が好ければ朝鮮半島も水平線の彼方に望めたろう。
この城の巨大さと堅固さが吾輩に次の思いを抱かせる。秀吉は誇大妄想に取り憑かれながらも冷静に諸将の心理を読んでいた。無益無用の軍役を課せられ渡海した外地の土になる危険に曝されて、諸将の密謀、謀反はあり得る。そう、名護屋城は、全国から総動員され秀吉陣の周辺に布陣した諸軍が万一束になって懸かって来ても撃退できるぞと威圧するために築かれたのだ。僅か半年の突貫工事で。狂気の沙汰と言うべし。
↓手前に大手口がある。名護屋城には出入口が都合五口あった。
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