2019年12月11日水曜日

★奥の細道紀行 第209章 村上市③「光栄寺」(今はない)

曾良随行日記』 『〇二十八日 ‥‥申ノ上刻(さるのじょうこく・午後三時半過ぎ)村上ニ着き、宿借りテ城中ヘ案内。‥‥。
〇廿九日 天気吉。昼時帯刀公ヨリ百疋給す(←10万円ほどらしい。3万円ほど説もある)喜兵・友兵来テ、光栄寺ヘ同道
 一燈公ノ御墓拝。‥‥。帰りて、冷麦持賞。(以下略)』
↓芭蕉二泊の宿「井筒屋」の女性が今は亡き「光栄寺」のあった地を教えてくれた。が、近くに来たとは思うんだが辿り着けない。そこでそこにあった「富士美園」(お茶屋さん)に入ってソフトクリームを注文した。暑い日だった。店内で食べ終わって「光栄寺」のことを訊くと、女性店員と家付きのオジイチャンが親切に教えてくれた。店の裏手にあった。裏手に回ると「浄国寺」という寺があり、その寺の隣に昔あったそう。↓「富士見園」
 ↓セレナ君を写した。
 ↓裏に回ると在った、浄国寺が。
 ↓確かに「光栄寺跡」の観光案内がある。光栄寺は村上藩主・榊原家の菩提寺で、榊原家が藩替えで他国に移ったときに共に移転してなくなったという。榊原家が最終・上越高田藩となったので、光栄寺は高田(上越市)に現存するそう。
↑「光栄寺跡 元禄2年(1689)6月29日、「奥の細道」行脚の途次、曾良が知人の喜兵、友兵と共に、旧主の三男、榊原一燈公(大学良兼)の、お墓詣りをした光栄寺は、この浄国寺に、隣接していました。」 この文章を読むと、曾良だけが知人と参詣して、芭蕉は来ていないようにとれる。
 ↓浄国寺。左・本堂、右・庫裏
 ↓浄国寺に隣接して奥に広い空き地があったので撮影。ここが多分光栄寺跡だろう‥と思って。
〇芭蕉の足跡がまた一つ辿れた。

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