2019年12月26日木曜日

★奥の細道紀行 第220章 柏崎市「天屋弥惣兵衛宅跡」(芭蕉は不快な仕打ちに立腹し止まらずに立去り次の宿場に向かった)

『曾良随行日記』 『○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻(午前7時半頃)止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天や(屋)弥惣兵衛へ弥三良(郎)状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅(さるのげこく、杓子定規には午後4時半頃だが、夏至の頃のことだから午後6時頃)、至鉢崎宿たわらや(俵屋)六郎兵衛。』
〇芭蕉と曾良は柏崎に至り「天屋惣兵衛」方に弥三郎の紹介状を届けて宿など云い付けたところ、芭蕉を扱う態度が悪く、芭蕉はすっかり気分を害して飛び出した。店の者が二度に亘って道まで走り出て止めたが、芭蕉は止まろうともせずに道を急いだ。結局芭蕉は小雨の中を意地で歩き続けて午後六時頃に(「申の下刻」は理屈通りなら午後五時前だが、当時は夏冬で日中夜間の一刻(いっとき・いっこく)の時間は伸縮した。夏の日中時間の一刻は間延びした。日の出から日の入りまでの時間を六で割り、日の入りから日の出までの時間を六で割るからこうなる。一刻は約二時間。「約」を付けるのが正確)次の鉢崎宿(今、米山町)に着いて泊まった。
◎芭蕉が越後路に不興を覚え《奥の細道》から越後路をほとんどネグレクトしてしまう挙に出た原因の、其の二が柏崎での上の一件だろう。この原因は強烈でなかったか。何せ柏崎で・紹介先の豪商・天屋に泊るつもりだったのにその玄関で不快の目に遭い激怒して天屋を飛び出し、その勢いで鉢崎(はつさき)宿まで四里、米山峠越えの難路を歩き通したのだから大した立腹だった。しかも、翌日の出立は昼時になっている。腹立ち紛れで意地で歩き通した疲れが残ったと見える。天屋で何があったのか。多分、芭蕉のみすぼらしい身なりから乞食坊主と見られ邪険な扱いをされて怒ったのだろう。天屋の主人がそんな扱いをしたのか、番頭・手代がしたのか、そこまでは分からないが、芭蕉の怒り方から見て、天屋の主人の采配を感じ取ったと見てよかろう。天屋は柏崎の豪商だった。
◎「弥三郎の状」 弥三郎とは、象潟で芭蕉一行に追いついて来て以後所々に同道した「美濃の商人・低耳」。低耳の紹介状は翌夕、直江津・今町の聴信寺でも効き目がなく芭蕉を不快にさせる。低耳に信用がなかったのではないかという疑問は無視できない。
↓天屋跡は、柏崎市街の「石井神社」の近くだと見当をつけて先ず石井神社を探索。あった。
↓石井神社




 ↓神社の近くを探索。らしき標識を発見
  
 ↓「芭蕉奥の細道紀行・天屋跡」
 車はセレナ君 。セレナの直前に「天屋跡」の標識がある
 ↓大通りまでの間に空き地・駐車場が広がっているが、この空間にかつて「天屋」があったのではないか。
〇発見できないだろうと思っていた「天屋跡」を発見できたので、ボクはすっかりご満悦。

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