2019年12月12日木曜日

★奥の細道紀行 第212章 新潟県胎内市旧乙(きのと)村「乙宝寺(おっぽうじ)」

〇芭蕉は《奥の細道》で旧北蒲原郡乙(きのと)村を通過したことも、そこで乙宝寺(おっぽうじ)を訪ねたことも語っていない。凡そ芭蕉は越後路については極めて素っ気ない態度をとり、鼠の関から市振の関までの長途を次の数行で片付けている。
鼠(ねず)の関をこゆれば、越後(えちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中(えっちゅう)の国市振(いちぶり)の関(せき)にいたる。この間(かん)九日(ここのか)、暑湿(しょしつ)の労(ろう)に神(しん)をなやまし、病(やまい)おこりてことをしるさず。』
〇「曾良随行日記は、河合曾良による1689年(元禄2年)及び1691年(元禄4年)の日記を中心とする自筆覚書。 その存在は古くから一部には知られていたが、芭蕉研究においては、山本安三郎が再発見して1943年(昭和18年)に出版し全貌が明らかになるまで、疑いの目で見られていた。 出版以来《おくのほそ道研究に一時期を画し、《おくのほそ道》本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識を考察する上で不可欠な資料となった。奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された(Wiki より)」
この日記には次のように乙村のことが記されている。七月朔日 折々小雨降ル。‥‥朝之内、(村上の)泰叟院へ参詣。巳ノ尅(みのこく・午前10時)、村上ヲ立。午ノ下尅(うまのげこく・午後12時半頃)、乙村(きのとむら)ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺(おっぽうじ)へ同道、帰 而つゐ地(築地)村、息(子息)次市良(次市郎)方へ状添遣(つかわ)ス。乙宝寺参詣前大雨ス。即刻止。申ノ上尅(さるのじょうこく。午後3時半頃)、雨降出。及暮、つゐ地(築地)村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。』
↓ 乙宝寺手前。この県道は、芭蕉が通った旧道にほぼ沿っていよう。
↓左の道が、乙宝寺に至る旧参道。


↓乙宝寺の山門



↓ 弁天堂

↓ 大日堂・本堂
↓本堂
↓「大日堂(本堂) 乙宝寺七堂伽藍の中心堂宇、延享2年(1745)に再建されたお堂は昭和12年に焼失し、現在のお堂はその債権で昭和58年復元完成した。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の三尊を安置、天平8年(736)聖武天皇の勅願により行基菩薩、菩提遷那(婆羅門僧正)の二人の高僧によって開創されて以来、所願成就、心願成就の祈祷の道場として栄えてきた。‥‥」


↓ 鐘楼
↓ 三重塔・重要文化財



↓ 地蔵堂
↓ 観音堂
↓観音堂の左手前に句碑が並んでいる
〇観音堂の石段の前・左に芭蕉句碑がある。後方の丸い句碑がそう。前列右の句碑は、芭蕉が酒田で世話になった不玉のもの。
↓「松尾芭蕉句碑 元禄2年(1689)松尾芭蕉参拝。
 うらやまし浮世の北の山桜 芭蕉
酒田の不玉の句に
 三越路や乙の寺の花ざかり
安田以哉坊の句に
 差別なう神も仏もさくらかな
がある。古来乙宝寺は桜の名所として知られてきた。
芭蕉の句碑は後側の円形のもの
不玉の句碑は前側右方
安田の句碑は前側左方」
↓ 芭蕉句碑。『うらやまし浮世の北の山桜』
↓句碑裏面
↓ 六角堂

↓境内に八所神社がある
↓林の中に小社がある
↓方丈へ
↓弘法大師ゆかりの大葉樫(おおばがし)
↓夢殿・真言堂・方丈


本坊の式台(玄関)
↓惣門
〇乙村は中条町と合併し、中条町は黒川村と合併して胎内市になった。

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