2019年12月6日金曜日

★奥の細道紀行 第203章 新潟県村上市北中「中村宿」跡(芭蕉一宿の地)

〇芭蕉の奥の細道をなぞる旅で最も悩まされたのは、温海宿(鶴岡市南部)と中村宿(村上市北部)間の行程である。それをとにもかくにも旧中村宿(今、北中)まで辿り着いた。
曾良随行日記』『○廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ関 被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿ス。』
〇芭蕉と曾良が、北中(旧中村宿)に一泊したことは曾良の随行日記が昭和になって初めて発見されて明らかになった。随行記には宿場は中村と書いてある。しかしどんな地図にも中村という地名はない。学者研究者は困って曾良の誤記説まであったが、何と真相は凄い。曾良随行日記の真価は自ずと太陽の輝きを放つことに。事の真相はこうだ。明治政府が命令を出し、同一行政区内に同一地名があるときは地名の上に上・中・下あるいは東・西・南・北を付けることにしていた。芭蕉と曾良が一泊した中村も南に同一地名があったので「北中村」に改称され、その後「北中」と略称されることになった。地図帳の北中が芭蕉の時代の中村だった。事の真相が明らかになって、曾良随行日記の信憑性に太鼓判が捺され、日記に真贋論争或いは誤記説の生ずる余地が封じられた。北中の三叉路に芭蕉宿泊の宿の候補地があった。山深く北上して行く旧出羽街道と海岸線を辿って行く旧出羽街道がここで交わり一本道となって南下して越後路となり村上に至る。
↓北中の三叉路。「北黒川」から来る道が鶴岡から奥山越えで来る道(旧出羽街道)。「中津原」から来る道が鶴岡から海岸沿いに来る道。「大毎」に行く道が越後路で村上に至る。この三叉路に、「芭蕉の宿泊地」があった。
「芭蕉の宿泊地」
↓三叉路に建つこの家(旅籠)が、芭蕉一宿の宿らしいのだが果たしてどうか。この三叉路付近が一宿の地の跡であることは間違いない。
↓「旅籠」の看板が見える。看板は漆喰製。
〇芭蕉と曾良はここで一泊し、翌朝村上城下を目指した。

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