2019年12月16日月曜日

★奥の細道紀行 第214章 新潟市新潟護国神社「芭蕉堂」

〇芭蕉と曾良は新発田市築地から水運を利用して新潟市街にまで至り宿泊した。このくだりは『曾良随行日記』に次のように記されている。
二日 辰ノ刻(午前8時)、(築地を)立。 ‥‥昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻(午後3時半頃)、着。一宿ト云(いうも)、追込宿之外ハ不(追込み宿のほかは宿を借れず)。大工・源七・母、有情、借。 甚持賞ス。』 大工の源七の母親が情ある人で宿を貸してくれた。
〇「アイの風、出る」との記述から舟便で新潟に着いたことが推察される。当時築地から新潟までは沼・潟・河川を繋いだ水運が発達していた。そのことは前章の「築地宿」で述べた。アイの風は、春から夏にかけて日本海の沖から吹く穏やかな風で、新潟に向うには順風。→リンク先
http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-47.html

★「追込み宿之外ハ不ㇾ借(かれず)」←芭蕉が越後路嫌いになった原因の一。これまで宿の紹介状は余りにお粗末で通用しなかったので返戻していた。その結果か、新潟では、大工・源七の母の情を受けるまではまともな宿から相手にされなかった。多分、芭蕉の旅装がみすぼらし過ぎて乞食坊主と思われた。この後も越後路嫌いになる原因が行く先々で二、三と続いていくので要注意。
〇大工源七の家が新潟の何処にあったかを知ることはできない。新潟で芭蕉を記念するものを探すのは難しい。ようやく探し当てたのが護国神社の「芭蕉堂」。
↓新潟護国神社・二の鳥居

 拝殿
 ↓護国神社としては全国屈指のスケール。「芭蕉堂」を発見するのは至難だと見て「おはらい受付所」に寄った。巫女さんが懇切に教えてくれた。
 ↓二の鳥居を潜って一の鳥居に向うんだそう。
 ↓途中で横に入る所があるそう。
 ↓入って探すと分るそう。そうだろうがちょっとやそっとでは分り難い。
 ↓発見


 ↓「新潟名所・芭蕉堂 俳聖芭蕉翁元禄二年新潟に来りて文化の種をまきしを記念して。現存する芭蕉翁の記念堂としては日本一の大きな建物なり。永久保存のため堂の中は全部コンクリートつめにして中に翁の肖像画と由来書を銅筒に入れてあります。‥‥。昭和41年5月 吉原芳仙自費(500万円らしい)建設して新潟市へ寄贈す。」




↓側面に嵌め込まれたレリーフ 
《海に降る雨や恋しき浮身宿 芭蕉》 
芭蕉が新潟に滞在したことに因む句だと言われている。
↓芭蕉と曾良の旅姿 芳仙は画家
 ↓近くに蓑塚がある


 ↓左に「芭蕉堂」、右に「蓑塚」 
 ↓一の鳥居に近い

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