2019年12月5日木曜日

★奥の細道紀行 第202章 村上市「小俣宿」考

曾良随行日記 廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ関 被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計(はんみち・ばかり)ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿ス。』
〇前章では、芭蕉も曾良も山中の「小俣宿」を経由して「中村宿」に出たと考えてみた。しかし、村上市北部の地図を眺めていると迷いが出た。小俣宿を経由することの不自然不合理が目に付くのだ。先ず曾良。湯温海から山中を南下して小俣宿に至るのは難路続きだったろう。浜温海から湯温海までの距離は「半道ほど」だったという。それなら来た道を戻って海岸沿いの道に出て芭蕉の後を追った方が分り易いし楽だったろう。道のりもかえって近かったかも知れない。芭蕉について言えば、鼠ヶ関から山道に入って小俣宿に至り、そこから南下して中村宿に出るのは、海岸線沿いの道(今の国道7号線バイパス)を行くよりも難路に見える。ボクが小俣宿経由説を称えるのは、この日の芭蕉宿泊地中村宿(現在北中)を訪ねたとき、その町のはずれから北上する古道を発見し、その古道の呼称が「旧出羽街道」と表示されており、その古道を「旧出羽街道」の案内通りに北へ北へと辿ると「小俣宿」に着いたということからだった。小俣から川沿いに西に下って行くと府屋という日本海に面した町に出る。そこから海岸通りを北上するとほどなく鼠ヶ関に至る。この「旧出羽街道」の案内標示通りにたどった山中の旅がボクに与えた感動が深かった。また小俣宿は、山奥の宿場にしては整った風情の街だった。これらのことが、ボクに「小俣宿」経由説に傾かせた理由だった。しかしさらに考えてみると、曾良が小俣宿を経由し、彼が芭蕉も小俣宿を経由して南下することを知っていたとなると、日記にどうして小俣宿経由のことを書かなかったのか、この点は大いなる疑問である。また、浜温海から湯温海間の距離が「半道ばかり」ならどうしてさっさと逆戻りして浜温海に戻りそれから海岸線の道をたどって芭蕉の後を追わなかったのか。
ということで、昨日は小俣宿経由説だったけれども、今日は日本海沿いの国道7号線バイパスに近いルート説を採用することに。
↓北中(旧中村宿)から小俣宿に出る


↓小俣の庄屋格の家


↓どの家にも、屋号と家紋が表示されている






↓府屋まで8km。府屋は日本海に面した町
↓「村上藩小俣口留番所跡」















↓これが旧道
〇出羽街道の図 右に小俣、左に中村(北中)
↓小俣(現在地)から中村(北中)に向けての出羽街道
↓出羽街道続き。左端に北中(中村)。北中から上に延びる細い赤線が、国道7号線バイパス

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