とうとう歌枕「竹隈の松」までたどり着いた。「竹隈の松」は万葉時代からの歌枕。但し岩沼に現存する松は古代の松の子孫。
↓松の傍に、左から二木の松の解説板、二木の松の木柱碑、歌枕古代歌の石碑が立っている。
↑↓解説板
↑「二木の松(竹隈の松) この松は、陸奥の歌枕の中でもその詠歌の多いことでは屈指の名木である。千余年前、陸奥の国司として着任した藤原元良が植え、以後能因・西行をはじめ多くの歌人に詠まれるようになった。元禄2年5月4日(1689年、現在の6月20日)、この松を訪れた松尾芭蕉は《奥の細道》で《竹隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなわずとしらる。先ず、能因法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)、むつのかみにて行し人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠みたり(末尾参照)。代々、あるは伐り、あるひは植え継ぎなどせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。「竹隈の松みせ申せ遅桜(おそざくら)」と、挙白(きょはく。江戸の門人)と云ふものゝ餞別したりければ、》と記して《桜より松は二木を三月越し》の句で結び、《曾良随行日記》には、《岩沼入口ノ左ノ方ニ、竹駒明神ト云う有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ竹隈の松有り。竹がきヲシテ有り。ソノ辺、侍(さむらい)やしき也。》とある。この松は、植え継がれて七代目といわれ、文久2年(1862年)に植えられたものと伝えられている。」
〇「うえしときちぎりやしけむたけくまの まつをふたたびあひみつるかな」藤原元良
〇「たけくまのまつはふたきをみやこびと いかゞととわばみきとこたへむ」橘 季通
〇「たけくまのまつはふたきをみやこびと いかゞととわばみきとこたへむ」橘 季通
↓松の背後に庭園があり、その奥に芭蕉句碑がある。
歌枕=武隈の松
〇西行《枯れにける松なき宿の武隈は みきと云ひても甲斐なからまし》 西行がここを訪れたとき、松は枯れていたらしい。
〇能因法師《たけくまの松はこのたびあともなし ちとせをへてや我はきつらん》 能因法師が陸奥に再び下った時、松は伐られてなかったらしい。