2019年7月5日金曜日

★奥の細道紀行 第41章 白河市「庄司戻しの桜」

曾良随行日記』『(四月)廿日 一 ‥‥芦野・遊行柳。
一 ‥‥寄居村。‥‥
一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や(屋)有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有(★註1)。古関(★註2)を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官(註:源義経)ヲ送リテ是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也(★註3)。土中古土器有。寄()妙ニ拝(←「拝む」とメモしたのだから、旗宿の外れまで行って来たのは事実だろう)。)』
★註1 芦野、寄居、白坂と続く道は、今は国道294号線。芭蕉紀行時の奥州街道。
★註2 白河の関。旗宿は奥州街道から外れていた。今は県道76号線沿い。
★註3 「庄司戻しの桜」の伝承。
以下、写真・文は、白河市公式ホームページより引用
「伝承によれば、治承4年(1180)に源義経が兄頼朝の平家追討の挙兵を伝え聞いて平泉から鎌倉へと向かった際、信夫庄司の佐藤元治が、子の継信、忠信を義経に従わせ、この地まで見送り、この地から引き返したので「庄司戻し」といわれている。その時元治は、桜の杖を地面に挿して兄弟に義経への忠義を説き、その忠・不忠により杖が根付き、あるいは枯れるだろうと語ったという。その後、佐藤兄弟は二人とも奮闘の末に討死した。桜の杖はその忠節を感じて枝葉の繁る大樹となったと伝えられる。‥‥桜の木は天保年間(18301843)に野火で焼けたが、新芽を生じ植え継がれているという」
↑「桜の下に建つ「霊桜碑」の石碑は、明治44年(191110月に地元有志が佐藤兄弟の勇戦奮闘を賞讃して建立したものである」
↑右上に「庄司戻しの桜」があり、左下に「白河神社」「白河関の森公園」がある
〇奥の細道紀行を書き進め、白河の関の段に至って「庄司戻しの桜」の伝承地が旗宿上(かみ。下の地名もある)の外れに残っていることの重要性に気付いた。芭蕉が古関を尋ねた当時、関は野山の草木に埋もれてそれと識別することは出来なかった。当時、奥州街道は既に白坂道(現国道294号線)に移っていた。旗宿道は名もない古道になっていた(今は県道76号線)。しかし古道だが、かつての東山道・古代奥州街道であった可能性がある。それを示すのが「庄司戻しの桜」の伝承地の存在。佐藤庄司が平泉藤原氏の命を受けて、わざわざ飯坂温泉大鳥城から義経を送って来るのに古代奥州街道を堂々と通らずに来るだろうか。二人の愛息を義経に臣従させて送り出す別れの地を、古代奥州街道以外の田野道に求めるだろうか。この「庄司戻し」の伝承が信じられるとすれば、この伝承地の所在地こそ、古代奥州街道の道筋に当たっていることの証拠になる。芭蕉が果たしてここが白河の関の跡かどうか疑念を残しながら立ち去った関の明神の付近こそ、古代奥州街道沿いに立地した往年の白河の関跡だった。


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