2019年7月4日木曜日

★奥の細道紀行 第40章 歌枕《白河の関》

奥の細道》《心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白川の関にかゝりて、旅心(たびごころ)定まりぬ。いかで都へ(★註1)と便り求めしも断(ことわり)也。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうそう)の人、心をとゞむ(★註2)。秋風を耳に残し(★註3)、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)(★註4)猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改めし事など、清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良》
〇歌枕満載の名文。以下四首の和歌が書き込まれている。
1「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛」に拠る。
2「白河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり 西行」に拠るか。
3「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師」に拠る。
4「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白川の関 源頼政」に拠る。
曾良随行日記』『(四月)21日 霧雨降る、辰の上剋(午前7時半頃)止む。宿を出る。町より西の方(★註1)に住吉・玉嶋を一所に祝奉(いわいたてまつる)宮(★註2)有り。古の関の明神故に二所の関の名有るの由、宿の主申すに依りて参詣。それより戻りて関山へ参詣。‥‥』
★1 方位を定位すると「南の方」が正しい。曾良の勘違いか誤記
★2 白河神社の祭神は前章で明らかにした。それによると、祭神は四柱祀られており、そのうち二柱は「関の明神(境の明神)」とおなじく女神「衣通姫(そとおりひめ)」と、男神「中筒男命(なかつつおのみこと)」である。旗宿に「住吉・玉嶋を一所に祝奉宮有り」という記載は頷けるし、旗宿の主が白河神社について「古の関の明神故に二所の関の名有るの由」という記載も頷ける。白河の関が機能していた当時は未だ「白河神社」と呼ばれていなかったかも知れない。
  ↑古関蹟の碑 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政12年(18008月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。」
↓空堀跡

 ↓土塁跡 。空堀の土をかきあげて築いた。
 ↓関所内の平地
 ↓空堀跡



 ↓奥の細道・白河の関の段が書かれた碑。
 ↑奥の細道》《心許(もと)なき日かず重ぬるまゝに、‥‥‥以下省略》
 ↓従二位の杉。推定樹齢800年。
  ↓旗立の桜。源義経が平家追討のため平泉を立ったときこの神社で旗揃えをしたとき、ここに生えていた桜に源氏の旗を立てかけたと伝えられる。桜は代代わりしている。
 ↓幌掛けの楓。源義家が阿部貞任攻めのとき(前九年の役)、ここに生えていた楓に幌を掛けて休息したと伝えられている。


0 件のコメント:

コメントを投稿