2019年7月17日水曜日

★奥の細道紀行 第60章 信夫の里・文字摺石

奥の細道》《あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、忍(しの)ぶのさとに行く。遥か山陰の小里(こざと)に石半ば土に埋(うず)もれてあり。里の童べの来りて教えける。昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして(石の見物人が畑を荒らして)、此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面(おもて)下ざまにふ()したりと云う。さもあるべき事にや。  早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
曾良随行日記』『(五月)二日 快晴。福嶋を出る。‥‥阿武隈川を舟にて越す。岡部の渡りと云う。それより十七八丁、山の方へ行きて、谷あひ()にモジズリ(文字摺り)石あり。柵ふり()て有り。草(茅葺)の観音堂有り。杉檜六七本有り。‥‥』
〇福島宿を過ぎて
↓「文字摺観音」に着いた。すぐ向かいに信夫山が横たわっている。ここに、芭蕉が探訪にこだわった「信夫文字摺石」がある。この地は歌枕だった。

松尾芭蕉の銅像

↑「石の伝説 遠い昔の貞観年中(九世紀のなかばすぎ)のことです。陸奥国按察使源融(とおる)公が、おしのびでこのあたりまでまいりました。夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますとこの里(山口村)の長者が通りかかりました。公は、出迎えた長者の女(むすめ)虎女の美しさに思わず息をのみました。虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。こうして、二人の情愛は深まり、公の滞留は一月余りにもなりました。やがて、公を迎える使いが都からやってきました。公は初めてその身分をあかし、また会う日を約して去りました。再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「もぢずり観音」に百日詣りの願をかけ、満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もぢずり石」の面に慕わしい公の面影が彷彿とうかんで見えました。なつかしさのあまり虎女がかけよりますと、それは一瞬にしてかきうせてしまいました。虎女は、遂に病の床についてしまいました。
 みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに
公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。もぢずり石を、一名「鏡石」といわれるのは、このためだと伝えられています」
曾良随行日記』『‥‥(信夫の里に)虎が清水と云う小さく浅き水有り』と記しているが、虎女伝説にゆかりの古蹟だろう。
★この清水跡については、現地を見分して報告したい。
文字摺石。石の表を下にして臥しているという。下になって隠れた表には文字文様があり、昔の人はその文様に布地を当ててその上から色を付けた藁等で擦って文様を写し取った染め布を作ったらしい。さしずめ信夫文字摺りというブランド。


〇文字模様が浮き出た面は、昔そこにこの石が在った畑の耕作者に石が谷底に突き落とされて、下になってしまって見えないそう。

観音堂

↓河原左大臣(源融公)詠歌碑
《陸奥の忍ぶもち摺誰故に乱れ染めにし我ならなくに》
多宝塔

正岡子規句碑  《涼しさの昔をかたれ しのぶずり》

源融(みなもとのとおる)の墓
芭蕉句碑 《早苗とる手もとや昔しのぶ摺


0 件のコメント:

コメントを投稿