2019年7月14日日曜日

★奥の細道紀行 第57章 黒塚

奥の細道》《‥‥二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る》
曾良随行日記》『二本松の町も奥方のはずれに亀ガヒと云う町有り。それより右の方へ切れ、右は田、左は山際を通りて一里程行きて、供中の渡しと云いて、阿武隈を越え舟渡し有り。その向うに黒塚有り。小さき塚に杉植えて有り。又、近所に観音堂有り。大岩石たたみ上げたる所・後ろに有り。古の黒塚はこれならん。右の杉植えし所は鬼をうづめし所成らん、と別当申す。天台宗也‥‥』
↑「奥州安達ケ原黒塚の由来 奥州安達ケ原黒塚は、奈良時代の神亀3(726)紀州熊野の僧、東光坊阿闍梨祐慶が、如意輪観音菩薩を念じ、破魔の真弓に金剛の矢をつがえ、鬼婆を射て、埋葬した所である。
平兼盛が詠んだ『みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか』の歌をはじめ、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃等で昔から演じられている安達ケ原の鬼婆の物語は、全国的に知られている。なお、菩提寺である観世寺には、鬼婆の住家であった奇岩怪石の岩屋が、今なお残っており、俳人正岡子規の「涼しさや聞けば昔は鬼の家」の句碑がある。」 
黒塚


↑背後の橋は阿武隈大橋。↓川は阿武隈川。
 ↑芭蕉と曾良は阿武隈大橋に近いこの辺りを舟で渡って向かい岸の黒塚に着いた。渡しの名は「供中の渡し」。芭蕉と曾良は「黒塚」「観音寺」「安達ケ原」を一巡して直ぐに「供中の渡し」を渡り返して奥州街道に戻り福島宿を目指した。


0 件のコメント:

コメントを投稿