2019年7月2日火曜日

★奥の細道紀行 第38章 二所の関址

〇栃木・福島県境白坂の「関の明神(境の明神)」の近くに「白河二所の関址碑」があった↓
  


  ↑「白河二所の関址 白河の関は古くから二所の関と呼ばれ□溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾□にも選べるのである。白河楽翁により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三□四□所を通っている白坂道は昔からよく利用され古の関蹟にみられる関の男女の明神社があり(男神=住吉社、女神=高嶋社)古関の体裁をもっともよく保ちながら白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)と其の考証に當たり遂にその関屋跡を確認することが出来た。茲に白河二所の関址立証を機とし白坂道白河関址に記念碑を建立し永く白河二所の関の意を伝承せんとするものである」
〇白河の関跡を、国道294号線(旧奥州街道)の白坂「関の明神(境の明神)」の近くに比定する論者はなかなかいない。研究者の大概は、旗宿(はたじゅく)字関の森の白河神社に隣接する関の森公園を白河の関跡に比定する。論者の一部が、旗宿から白河市街に抜けていく道中に聳える関山(せきさん)の山頂に古関があった可能性を論ずるくらいである。芭蕉と曾良は、旗宿にあり・当時「二所の関」と呼ばれていた古関(今「白河の関」と呼ばれてほとんど疑義が生じない。国指定史蹟となっている)を先ず訪ね、それから念のため関山満願寺に登山して白河の町に下りている。関山は619mの標高がある。その山にわざわざ登頂したところを見ると、芭蕉は旗宿の古関を白河の関跡と断定しかねたのだろう。芭蕉が探訪した元禄2年(1689)当時、旗宿の古関(宿の主は「二所の関」と呼んだ)は全く整備されておらず草木の中に埋もれていた。白河藩主松平定信が旗宿の古関を「白河の関跡」と断ずる研究成果を公表し、関跡に「古関蹟の碑」を建立したのは1800年のこと。芭蕉にとって、白河の関跡を尋ねることは、奥の細道紀行の眼目・夢だった。後悔(探訪し損ない)は許されない。そこで芭蕉は念のため(ご苦労なことに)関山にも登って(二股かけて)悔いを残さず(疲れ果てたが)陸奥国に入った。

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