2019年10月24日木曜日

★奥の細道紀行 第127章 平泉「さくら川、さくら山」「金鶏山」「観自在王院跡、無量劫院跡」

曾良随行日記』  『(五月)十三日 天気明。巳の剋(みのこく・午前十時)ヨリ平泉へ趣く。‥‥。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂(金色寺、別当案内)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等を見る。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云えドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不ㇾ行。三十町有る由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン(新御)堂、尤量劫院跡見。申の上剋(さるのじょうこく・午後三時半頃)(一関の宿に)帰ル。‥‥』
〇「さくら川」 どこにも発見できなかったが、後日柳御所遺跡の立体地図案内板を見ていて気づく。↓北上川が屈折する地点に接して高館(義経最期の地)があり、その小山の上方に接して小さな川がある。それが多分「さくら川」。平泉の街の中を流れていることになるが、今は川としては流れていないと思う。さらに上(北)に流れる川が衣川。
〇「さくら山」 この山も現地では分らなかったが、家で写真整理をしていて気づいた。西行の歌にヒントがある。↓中尊寺参道月見坂にある西行歌碑。


 《きゝもせず束稲(たばしね)やまのさくら花 よし野のほかにかゝるべしとは 西行》
↓高館の山上から眺めた束稲山(たばしねやま)。手前に北上川が流れる。この束稲山こそ別名「さくら山」なのだ。
〇「金鶏山」(中央やや左の∴▲印) 伝説がある。藤原秀衡が一晩で造らせたという。






〇「新御堂」は分からず。
 〇「観自在王院跡」 毛越寺の東(右)に隣接する
舞鶴ヶ池


無量劫院跡
 


 
↓背景に金鶏山
 

 
〇《奥の細道》にも『曾良随行日記』にも、毛越寺に立ち寄った形跡は毛頭ない。毛越寺ほどの名跡に寄っていたら書き留めないはずがない。どうして毛越寺に寄らなかったのか。それは、芭蕉と曾良は午前10時に一関を立ち、午後3時半頃一関の宿に戻っている。往還の所要時間を差し引けば平泉で過ごす時間は限られている。その時間内に二人は高館、藤原氏居館遺蹟、中尊寺、そして多分衣川を遡った泉ヶ城跡まで訪れている。時間と脚力の限界があり、毛越寺訪問は意図的に省略した。毛越寺の門前を通ったが、通過した。

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