2019年10月18日金曜日

★奥の細道紀行 第123章 平泉「高館(たかだち)」義経最期(自決)の地

《奥の細道》《‥‥先ず高館(たかだち)(★註)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐ つて此城(高館を指す)にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
★註 義経が、平泉で藤原秀衡から与えられた居城。小山(高台)の上にあった

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 芭蕉

卯の花や兼房見ゆる白毛(しらが)かな 曾良

↓高館に登る石段


↓「高館・義経堂 ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治元年(1189)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した(義経は、裏切者が差し向けた将兵達と一戦も交えなかったという)。時に義経三十一歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもがわのたち)に滞在していたところを襲われた。今は「判官館(はんがんだて)」とも呼ばれるこの地は、「衣川館」だったのだろうか。‥‥頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で
ききもせず束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは
と詠じた。また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
は、この場所といわれている。」
↓高館から、北上川の上流を見る。はるか先に白鳥の柵があったという。左から衣川が合流する。
↓高館から見た北上川と束稲(たばしね)山(さくら山)
↓義経堂


義経像
↓源義経公供養塔
↓芭蕉句碑


夏草や兵どもが夢の跡
↓柳の御所遺跡から高館の小山を見る。義経堂や句碑は、小山の左奥にある。

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