2019年10月28日月曜日

★奥の細道紀行 第135章 一関市「達谷窟(たつこくいわや)毘沙門堂」

曾良随行日記』 『(平泉探訪の日)‥‥天気明。巳の剋(みのこく・午前10時)より平泉へ趣く。‥‥を見る。‥‥タツコクガ岩ヤへ不ㇾ行。三十町有る由。‥‥。申の上剋(さるのじょうこく・午後3時半頃)(一関の宿に)帰る。‥‥』 曾良は名所・歌枕の情報ヲ収集整理して旅程を立てたが、達谷窟毘沙門堂も探訪予定地に入っていたと見える。しかし、三十町の寄り道がきつくて探訪を断念した。
 ↓一の鳥居。三の鳥居まである。神仏分離は全くしていない。ここには、幕末維新時の神道原理主義の嵐は全然及ばなかったと見える。




 ↓弁天堂。弁財天は、水と財を司るインド渡来の神なので必ず池の中に坐っている。


 ↓達谷窟毘沙門堂


 ↓「達谷窟毘沙門堂縁起」 約1200年前、悪路王等の蝦夷がこの窟に塞を構えて悪逆の振舞いが多かった。桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に任じて討伐させた。悪路王等は参千余の賊徒を率いて駿河国清見関まで進んだが、田村麿公が京を発したと聞いて惧れをなしこの窟に引き返して守りを固めた。延暦20年(801)大将軍は窟に籠もる蝦夷を打ち破り・悪路王らの首を刎ね・遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ・その御礼に京の清水の舞台造りを真似て九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り・国を鎮める祈願所とし毘沙門堂と名付けた。延暦21年(802)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人(おうしんしょうにん)を開基として東西30余里、南北20余里の広大な寺領を定めた。前九年・後三年の役の折には、源頼義公・義家公が戦勝祈願のため寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。文治5年(1189)源頼朝公が奥州合戦の帰路・毘沙門堂に参詣し、その模様が《吾妻鏡》に記されている。‥‥」という縁起の古く由緒ゆかしき御堂であった。
  ↓達谷窟毘沙門堂




 ↓岩面大仏






 ↓不動堂




 ↓本堂・金堂


 ↓ここの方丈・庫裏はそれは見事に古く格式のある萱葺き建物だった。方丈の写真を撮り忘れたことが重ね累ね悔いを残す。
 ↓冬の達谷窟毘沙門堂

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