2019年10月13日日曜日

★奥の細道紀行 第119章 一関市芭蕉二泊の宿「二夜庵」

奥の細道》『(石巻を立ち)‥‥などよそめにみて、遥かなる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊麻(といま)と云ふ所に一宿して、平泉に到る。其の間廿余里ほどとおぼゆ。』
★註 芭蕉は平泉に行く前に一関に一泊したことを《奥の細道》に書かない。大雨に祟られたとはいえ、平泉に近い一関に行きも帰りも二泊した行程をそのまま書くのは筋立てが冗漫になると思ったのだろう。
曾良随行日記』『(五月)十一日 天気能(よし)。石ノ巻ヲ立つ。‥‥。飯野川(一リ()余渡し有り。三リ()ニ遠し。此の間、山ノアイ()、長き沼有り)。‥‥。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)(登米)、儀左衛門宿不ㇾ借、仍検断告テ宿ス(儀左衛門に宿を借らず、検断庄左衛門に告げてそこに泊ったらしい)。
十二日 曇り。戸今(登米)を立つ。三リ()、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ(里)、安久津(松嶋より此処迄両人共に歩行。雨強く降ル。馬ニ乗る)。一リ()、加沢。三リ()一ノ関(皆山坂也)。黄昏ニ着く。合羽モトヲル也。宿ス。』
芭蕉が石巻・登米から一関に入るときに大雨に祟られたカッパ崖と、一関での2泊の宿の痕跡があるというので探索したが見当がつかずgive up。駅前の交番に駆け込んだら若い女性警察官が対応してくれて親切。それもスマホの機能を駆使してあれもこれも割出してくれた。お蔭様で目当ての探訪をすべて成就した。
↓一関駅前交番で若い女性警察官に懇切に教えて貰った芭蕉二宿の地「ニ夜庵」跡に到着。右側に磐井川(かなりの大川)が流れている(いずれ北上川に注ぐ)。セレナ君の停まっている地点は磐井大橋たもと。


 ↓「漂泊の詩人松尾芭蕉・二夜庵跡」
 ↓「芭蕉奥州路最北の宿・芭蕉二夜庵跡」「俳聖・松尾芭蕉が弟子曾良を伴い奥の細道行脚の旅で一関を訪れたのは元禄二年(1689)5月12日、雨の日の夕暮れだった。翌13日は平泉に遊趣し、高館・衣川・中尊寺などを巡り一関に帰る。金森家は芭蕉翁がニ宿したことからニ夜庵と呼ばれるようになった。14日はここを立ち、尿前ノ関を越えて日本海の出羽の国に入った。詩歌俳諧の聖典『おくのほそ道』の頂点にあたる平泉の著述が、ここに宿することで編まれたことを想うとニ夜庵の存在は大きい。」
 ↓「奥の細道曾良旅日記抄」「元禄2年5月 12日曇、戸今(登米)を立。安久津雨強降る。馬に乗。1里・加沢、3里・皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス
13日天気明。巳ノ剋(みのこく・午前10時)ヨリ平泉ヘ趣。1里山ノ目、高館・衣川・中尊寺・光堂・秀平やしき等を見ル。申ノ上刻(さるのじょうこく・午後3:30頃)帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待。宿ス
14日天気吉。一ノ関ヲ立。」



 ↓中央の川が磐井川。川のたもと(地図の中央)に現在地のニ夜庵跡がある。右上に「配志和神社」が見える。この神社に芭蕉句碑があるというので探訪したが、痛い目に遭った。
 ↓明治天皇行幸碑
 ↓ニ夜庵跡。この庵跡は元・別の所にあったが、都市計画によりこの地に移転し、行幸碑に隣接することになったらしい。


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