2019年10月9日水曜日

★奥の細道紀行 第117章 芭蕉一宿の地「登米宿」

奥の細道‥‥(石巻を出立して)遥かなる堤(旧北上川の土手)を行く。心細き長沼にそふて、戸伊麻(といま)(登米のこと)と云ふ所に一宿して、平泉に到る。‥‥

曾良随行日記》『(五月)十一日 天気能(よし)。石ノ巻ヲ立つ。‥‥。飯野川(一リ(里)余渡し有り。三リ(里)ニ遠し。此の間、山ノアイ(間)、長き沼有り)。‥‥。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)(登米)、儀左衛門宿不ㇾ借、仍検断(★註)告テ宿ス(儀左衛門に宿を借らず、検断庄左衛門に告げてそこに泊ったらしい)。
★註 検断とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫したプロセスを指す。 元は、「検察」と「断獄」を合わせた語で、非違を検察してその不法を糾弾するして断獄を行うことを意味している。 ウィキペディア
〇登米宿での芭蕉一宿之地の探訪は市街地をいくら走っても皆目見当が付かなかった。道端の親切そうなお婆さんに訊いたらヒントを与えてくれた。

↓それでようやく手掛かりを掴んだ。ここを左に行き北上川の土手に出る。
 ↓発見。右から「芭蕉一宿之地」案内板、「芭蕉一宿之地」石碑、「北上川」標識
 ↓北上川に架かる大橋。この橋を渡って対岸からこちら側、登米市街に来た。
 上流を見る
 ↓「芭蕉一宿之地」案内板
↓「芭蕉翁一宿之跡 元禄2年5月11日(1689・陽暦6月27日)、芭蕉は石巻を立ち、平泉へ赴こうとして、北上川沿いに登米(登米郡登米町)に至り、その夜は登米で宿泊した。そして翌12日、一の関へ向かったのである。芭蕉に同行した曾良の「旅日記」には登米の状況を「戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不ㇾ借(かさず)、仍(よりて)検断に告げて宿す。検断庄左衛門」としている。「おくのほそ道」では、その前後を含めて、
‥‥(石巻)宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸くまど(貧)しき小家に一夜をあかして、明くれば又、しらぬ道まよひ行く。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥かなる堤を行き、心細き長沼にそふて、戸伊麻と云う所に一宿して、平泉に至る。
と述べている。登米の「宿借サズ」を石巻に仮託しているが、北上川を遡って、未知の奥深くわけ入る心細い旅の情緒があふれていて、すぐれた行文に結晶している。登米は、伊達家の一門、伊達式部(2万1000石)の城下町である。曾良の「旅日記」の「儀左衛門、庄左衛門」は不明であり、「宿不ㇾ借」の詳細も知られていない。川東碧梧桐の六朝風の書体の「芭蕉翁一宿之跡」の碑は、もと検断屋敷跡に建てたものである。北上川の堤防工事で、屋敷跡が堤防の一角となってしまったのである。碧梧桐は、書でも一家をなしており、この碑は「おくのほそ道」関係の碑の中でも、注目すべきものの一つであろう。登米には、碧梧桐門下の新傾向の俳人、菅原〇竹、安齋桜磈子が住んでおり、碧梧桐は「三千里」の旅の途中、十日ほど(明治39年11月~12月)この地に滞在するなど、登米とは深いゆかりがあったのである
 ↓「芭蕉一宿之地」石碑
 石碑裏側。「元禄」から始まるが、風化してよく読めない。


 ↓北上川の登米市側の土手。芭蕉一宿之地の石碑と案内板が左側に立つ。この碑は、元は検断屋敷跡(堤防よりも右側)にあったが、北上川の堤防工事に際して現在地に移された。

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