2019年10月23日水曜日

★奥の細道紀行 第126章 平泉衣川「泉ヶ城跡」、安倍一族の本拠地、衣河関跡、月山

〇泉ヶ城跡を探訪しようとして関山中尊寺の裏山に迷い込み、衣川の土手に出てしまった。行き止まり。衣川は直ぐに北上川に注ぐ。北上川を挟んだ対岸に「束稲山(たばしねやま)」が見えている。西行が詠んだ歌の歌枕。
ききもせず 束稲山の さくら花 吉野の外に かかるべしとは」(山家集)
『曾良随行日記』に表れた「さくら山」はこの束稲山のことという説が有力。
↓泉ヶ城跡を尋ねて走り回っていると、小さな公園がありそこに案内図があった。重宝な図解で、城跡がはっきり表示されていた。衣川が見事に蛇行し、三方を川に包まれた要害の地を形成していることが分る。古代安倍氏族がこの要害の地に柵を構えて奥州に権勢を誇ったらしい。琵琶柵と泉ヶ城の拡大図を次に示す。
↓「琵琶柵」。安倍貞任の兄・成道の居館跡と伝わる。
 琵琶柵の右手に衣川を渡る橋がある。渡ると「小松館跡」。そこの橋の上から見た衣川が次の写真。
 注目すべきは、左上に赤点で「衣河関擬定地」と表示されていること。この関は今は所在地が判明しないとするのが定説だと解していたが、意外。安倍氏の柵、居館のあった入口に「衣河関」があったということか。
 さらに注目すべきは、上端に「月山神社」があること。『曾良随行日記』に表れる「月山」はこの山だろう。
↓衣川の上流を望見しているが、左側に小富士の様な形の小山が見える。これが月山らしい。その山裾を衣川が蛇行湾曲して流れる。月山の手前に泉ヶ城がある。

↓橋の上から見た衣川下流

↓同じく上流

↓「泉ヶ城」。藤原秀衡の三男、和泉三郎忠衡の居館で、古くは安倍貞任軍が衣川から全面撤退する契機となった「業近柵」とも伝わる。忠衡は、父秀衡の遺命を守り義経に最後まで忠節を尽くした。そのため義経を裏切った長兄・次兄に攻められて滅んだ(高館の章、それから塩竈神社の文治燈籠の章を参照されたい)
 字名は「平泉町字泉ヶ城」
 衣川から堀が穿たれ、泉ヶ城を堀川が囲って流れていることが分る。この堀川が今も現役で残っているのを見て驚いた。
↓案内標示に遭遇。「業近柵(泉ヶ城)入口0.3k」「衣河関跡1.2k」
道中、立派な本殿だけが孤立する神社に遭遇。渕端(ふちはた)諏訪大明神社。安倍氏、藤原忠衡(泉ヶ城主)と縁があるという。




↓以下が、泉ヶ城を廻る堀川
 上流部


↓下流部。
↓堀川から見た衣川本流。衣河に流入する口が見える
↓堀川の最下流部にかかる橋を渡って泉ヶ城の敷地内に入った。車はハリアー
以下「字泉ヶ城」
〇富士山の様に形よく見える山は「月山」。『曾良随行日記』に表れているが、先に示した「琵琶柵」の地図を見るまではその所在地が分らなかった。
 手前に堀川
↓泉ヶ城を廻る衣川
↓最後に「並木屋敷(衣川柵)」の地図を示す。「並木屋敷(衣川柵)」は、安倍頼時・貞任が居城した安倍氏の政庁、安倍氏滅亡後は清原氏の居館となったと伝わる。衣川の蛇行が見事な要害の地を形成していたことが分る。


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