「小田原城が始めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられている。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東地方の拠点として次第に拡張された。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を含む延長9kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達した。北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は近世城郭の姿に改修される。大久保氏改易後に城は破却されるが、寛永年間に稲葉氏が城主となると再び改修工事が実施され城の姿は一新する。大久保氏が再び城主となるが、元禄16年(1703)に発生した地震により店主をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失しているが、本丸御殿等を除き再建され、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続する。明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体された。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在に至っている。現在の小田原城は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されている。また、本丸を中心に「城址公園」として整備されている」
濠端の市営駐車場にセレナを入れて、目の前の赤い橋を渡る
すると直ぐに「二の丸御殿跡」の広場に出る。往時はこんな便利な赤い橋などなく、二の丸に至る通路は次に紹介する銅門(あかがねもん)を経由した。
「江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割を持った「二の丸御殿」の二つの御殿があった。「二の丸御殿」は、3代将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものだった。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上してしまった。その後再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばないものだった」
銅門(あかがねもん)。二の丸の表門。平成9年復原。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから「銅門」と呼ばれるようになった。
銅門を潜って、二の丸・本丸に行く。二の丸は右手、本丸は奥の方。
奥へ進むと、本丸の表門である「常盤木門(ときわぎもん)」を防御する城郭の一部が見えてくる。
常盤木門へはこの赤い橋を渡って行く。橋の下は、本丸東堀跡。
常盤木門を防御する城郭
常盤木門。小田原城本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていた。常盤木とは常緑樹の意味で、門の傍にあった松になぞらえて命名されたそう。昭和46年復原。
門を潜ると、本丸跡地
本丸公園。日本猿の大きな檻が今もある。象もいた形跡がある
天守閣。昭和35年復原
イヌマキの老樹
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