長篠城址に「長篠合戦図」として世に知られる絵のプリントが掲示してあった。設楽原古戦場を探訪してきた目で見ると、この図は殆ど「設楽原合戦図」。そして観察すると設楽原合戦の地理や戦闘の状況が実に正確に描写されている。戦場の狭さも誇張ではない、実際狭い。
これは正確な地図に設楽原決戦図と長篠包囲図を書きこんだものだが(右側の川の合流点に長篠城があった)、上の合戦図が如何に正確に描かれているかが見て取れる。
左の川が「寒狭(かんさ)川」右の川が「宇連(うれ)川」。二つの川に背後を完璧に防禦されて長篠城・本丸は立地していた。本丸の前方は平地。その前方は、濠が穿たれ土居が築かれ柵塀が設えられて幾重にも防御ラインが布かれていた。
この図は分り良いが、南北が逆転している
本丸を囲み防御する帯郭(おびくるわ)又は二の丸跡。右側の建物は長篠城址保存館
本丸と二の丸・帯郭の間の内堀と土居
本丸跡
本丸の内から見た土居
土居に上がる
土居の上
土居から見た二の丸・帯郭との間の濠跡
本丸と宇連川との間にあった野牛郭の中をJR飯田線が通っている
本丸の背後の鳶の巣山などの山々。武田包囲軍はこの山々にも布陣した、そして設楽ヶ原に戦場を移すときもこの山々の軍勢3,000だけは長篠城の抑えに残した。この抑えの軍勢が設楽が原合戦の当日、徳川軍別働隊の急襲を受けて狼狽し、その物音を織田徳川連合軍の総攻撃と早合点した武田勝頼が総攻撃を命じて運命の合戦に突入したという説がある。見たことのない鉄砲大部隊を前にして浅慮無謀な総突撃をいきなり敢行するなど愚の骨頂。この説の通りだった可能性はある。
本丸の背後の川に架かるJR線の鉄橋
本丸の背後を流れる寒狭川。本丸と川の間は50mの絶壁
本丸から望まれる寒狭川の対岸で「鳥居強右衛門(すねえもん)」が磔にされた。その壮絶な物語は心を揺さぶる。
「磔に散る烈士・鳥居強右衛門(すねえもん)」「5月14日、包囲する武田軍は長篠城に総攻撃を仕掛けた。城中の食糧はあと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜け出た。梅雨で増水した寒狭川へ下り、豊川を下ること4km。15日朝、かんぽう山で脱出成功の狼煙を挙げ、岡崎へ走った(長篠・岡崎間は50km)。岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴え周りの人々も感動した。使命を果たして、休養を勧められたが、彼は直ぐ引き返した。16日の朝、再びかんぽう山で「援軍来る」の狼煙を3発。そして長篠城の対岸まで来たが、厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。武田軍から「援軍は来ない、城を開けよ、武田軍は厚くもてなす」と呼ばわるよう説得されて長篠城の二の丸近くに立った(城は本丸と二の丸だけ残っていた)。しかし彼は「援軍は来る、この眼でしかと見てきた、あと二、三日堅固に守れ」と叫んだので、本丸の対岸の篠場野の地で磔にされた。強右衛門そのとき36歳。18日、織田徳川連合軍38,000が設楽原に着陣した。」
二の丸・帯郭の前。この平地に幾重にも防御の土居や柵塀が築かれていた。織田徳川連合軍が設楽が原に着陣したときにはそれらは皆突破され、残るは二の丸と本丸だけだった。
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