2011年4月9日土曜日
4/9(土)、醍醐の花見、南山城で国宝探訪
北陸道・南条SAで朝6時起床。7時京都に向けて出発。大津SAで国宝・十一面観音像のある京田辺市の観音寺に電話、案内書に「予約」を要するとあるがどうすればいいのか打診。「来て下さい」との答え。国宝・十一面観音像に会えると思ったら力が湧いた。直行すると1時間半かかる。時間を無駄にしたくないので寄り道しながら京田辺まで足を延ばすことに。先ず閃いた案が山科・醍醐寺で花見をしていくこと。太閤ばりに豪勢な醍醐の花見。雨に祟られるかと傘を持参したが降られなかった。花はちょっと過ぎていた。前回探訪しなかった三宝院と霊宝館を見た。伽藍と桜の風景写真には好いものが含まれていると思う。宇治に出た。三室戸寺(みむろどじ)を探訪。西国33札所第10番霊場。そして本日のお目当て、観音寺へ。京田辺の郊外・田園地帯にあった。大きくはない本堂、それと鐘楼しか残っていない。ところがその堂内に、北近江・渡岸寺(どうがんじ)の素晴らしい観音像にサイズも美しさも劣らない十一面観音・木心乾漆像が千数百年間守られ続けてきたのだから、その奇跡に驚かされる。それから蟹満寺(かにまんじ)に出た。宇治拾遺物語に登場する蟹伝説を持つ寺。ここでも国宝に面会できた。丈六の巨大な金銅・釈迦如来坐像。この寺も名刹なのに小さな本堂しか残っていない。但し新築されていた。近くに以仁王(もちひとおう)の墓があったので参詣。後白河法皇の皇子。平家追討の令旨を発した。源三位頼政が呼応し、源平争乱の時代が幕開け。頼政は宇治で討ち死にし、以仁王は南山城のこの地で最期を遂げた。村人がその死を憐れんで墓を造り葬ったという。宮内庁が例によって管轄宣言をしていた。今夜の野宿地を先日泊まったばかりの道の駅「大和路へぐり」に決めて向かう道中、岡田国(おかだくに)神社があったので夕暮れ前のひと時を有意義に費やすために寄ってみた。郷社。江戸時代までは天神社と称していたそう。明治になって式内社の岡田国神社に比定された。道の駅「大和路へぐり」は絶好の位置にある。吾輩の悲願、国宝十一面観音像七体全部にお逢いする目標達成のため探訪すべきは、あと藤井寺市の道明寺と桜井市の聖林寺(しょうりんじ)。その二寺にこの道の駅はほどよく近い。国宝の公開情報を検索したら、道明寺は毎月18、25日のみ公開し、聖林寺は無条件。これで明朝は東することに決定。聖林寺から山奥に入ると談山神社があるのでそこも探訪。聖林寺は談山神社の別当寺だったらしい。そこから北へ帰路を辿りながら何処に寄るかは未定。
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