2011年4月11日月曜日

4/10(日)、国宝・十一面観音と聖林寺で御対面、花の奈良公園・東大寺散策etc

昨日・日曜日は陽気な日で奈良を旅行中、上着を一枚脱ぎ二枚脱ぎした。帰宅は夜十時ですっかり疲れたのでそのまま寝てしまって、旅行報告を月曜日に書いている。日曜日朝5:40に道の駅・大和路へぐりで起床、7:00に出発。法隆寺・大和郡山・桜井を抜けて多武ノ峰(とうのみね)山中の談山(たんざん)神社を先ず訪う。第一目的は聖林寺で国宝・十一面観音像にお逢いすることなんだが、このままでは到着が早過ぎて開門を一時間も待つことになる、それで一旦聖林寺を通過して山奥の談山神社に詣でてからUターンすることに。それでも談山神社には開門前に着いた。有名な十三重塔を堪能した。藤原鎌足を祀る神社。中大兄皇子と鎌足が蘇我入鹿暗殺をこの山で談(かた)った場所に神社が立っている、だから談山神社だそう。絵になる社。多武ノ峰を下った麓に聖林寺がある。待望の国宝・十一面観音立像にお逢いする時が迫ってきて胸が高鳴った。国宝は、特別製の小さな鉄筋コンクリート造りの観音堂に納まっていた。その観音堂に違和感はなかった。あれなら鉄扉さえ閉めれば如何なる猛火にも耐えられて安心。観音像の立ち姿の美しさ・お顔の麗しさに心を奪われて時を過ごした。写真類をありったけ買った。もう今日の本懐を遂げたも同然、あとは帰路を辿りがてら奈良公園に行き東大寺を散策し、中でも三月堂に寄って国宝・不空けん索観音像にお逢いしてゆくことに、凄いおまけ。奈良公園ヘの道中、桜井市で等禰(とね)神社という古社があったので寄り道。式内社・縣社。日本の古代の神社は森の中でこのように静かに佇んで崇められてきたのだろうと思わせられた。奈良公園は興福寺から出発。暑い位。南大門を潜ってから手向山八幡宮へ。そして゛法華堂・三月堂の前に出た。ところが何と、三月堂は須弥檀と脇侍仏の修理中で来年末まで御本尊は不在なのだと(`´)。頭に来たので入場せずに受付で観音像の写真だけ買った。向かいの四月堂の御本尊・千手観音像は外から覗くだけで拝顔できた。お水取りで有名な二月堂は無料で入堂できる仕組み、隈なく探索。お水取りに関しては、若狭国遠敷(おにゅう)郡の神宮寺に「お水送り」の神事が伝えられている。鵜の瀬という淵で毎年白装束の村人がせっせと奈良の都・東大寺二月堂の閼伽井に向けて水を送る神事を続けている。二月堂の前の閼伽井の別名が「若狭井」であることは以前来て石碑を見て知っていた。今回二月堂の奥裏に入ってみて「遠敷神社」もあることを知った。こうなると若狭国遠敷郡の一角で古代から営まれてきたという神事は、決してかれらの独りよがりで行われているのではないのかも。二月堂から大仏殿の裏手に出る土塀続きの石段道は花の盛りでそれは美しく絵になった。生きていることが好いことだと実感できたひと時。ここでいつもとコースを変えて大浴堂の前に折れてそこから丘に登った。丘の上にこれまで見たことのなかった伽藍群が展開した。鐘楼・国宝、念仏堂、行基堂、俊乗(しゅんじょう)堂。そう言えば南大門から手向山八幡宮の間に広大な芝の園地が広がりその中で行楽の家族達が思い思いに昼下がりの時間を過ごす辺りで、東塔跡を見た。往時南大門から大仏殿に至る途中に二基の巨大な五重塔が東と西に聳えていたという。東塔と西塔。西塔は今の勧学院・真言院よりずっと西に建っていたというから往時の東大寺の規模は計り知れない。奈良時代にそのような雄大な東大寺をはじめとする大寺が幾つも建立されたということは、事実に違いないがちょっと信じ難い。ましてそれ以前の聖徳太子の時代に法隆寺や四天王寺が建立されたことを思えば、それはもう奇跡に思える。帰途五時間半の疲労を思い、今日の東大寺散策は東半分に留めて駐車場に向かった。名神道で渋滞に巻き込まれ、眠気にも襲われたが、PAで休み休みし何とか無事に七尾に帰り着いた。夜十時。沢山撮った写真をせめてPCに移すことだけはしようと思って布団に入ったんだが、何もせずに寝入っていた。

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