2019年6月23日日曜日

★奥の細道紀行 第24章 那須野、かさね(小姫)

曾良随行日記》『(4月)三日‥‥辰上剋(午前7時過ぎ)、玉入を立つ。鷹内へ‥、鷹内より矢板へ‥。矢板より沢村へ‥。沢村より太田原へ‥。太田原より黒羽根へ‥‥。』
奥の細道》《(玉生の名主の家に一泊し)(あく)れば又野中(のなか)を行く。そこに野飼(のがい)の馬あり。草刈(くさかる)おのこ()になげ()きよ()れば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)()らぬには非(あら)ず。「いかがすべきや。されど此(この)野は縦横(じゅうおう)にわか()れて、うゐうゐ(初々)(しき)旅人の道ふ()みたが()えん、あやしう侍(はべ)れば、此(この)馬のとゞ()まる所にて馬を返し給へ」と、か()し侍(はべ)りぬ。ちい()さき者ふたり、馬の跡した()ひてはし()る。独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねと云(いう)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは八重撫子の名成(なる)べし 曾良
(やが)て人里(ひとざと)に至れば、あたひ()を鞍つぼ()に結()()て、馬を返しぬ》
「奥の細道」の名場面の一つはこの《かさね》ちゃんの登場。芭蕉が乗り曾良が轡(くつわ)を取る馬の後を、小さい男の子と女の子が走って付いて来る。少女の名は「かさね」。その名も優しいが、その表情仕草がどれだけ可愛かったことか。可愛かった証拠に芭蕉は筆を労してこの少女との道行を描写している。「かさね」ちゃんが登場する場面は芭蕉の創作ではない。その証拠が曾良の一句。
 この名場面が展開した場所が問題。日光北街道の玉入宿と矢板宿の間だと推測する。矢板宿★からは道が奥州街道と合流し、矢板宿で馬を調達できたろう。
後日調べたら、矢板宿はなかった。ボクの推測は撤回する。
ボクは那須野は山合の谷間にあるものと思い込んでいたが全然違った。広大な北関東の大平原だった。那須連山が遥か北の彼方に低く横たわっている。
馬の後をかさねちゃんが慕ってきた場所について、異説は勿論ある。それを紹介。
玉入を発って日光北街道を北東に進むと矢板宿・沢宿とあって大田原宿に着く。沢宿は矢板と大田原の中間よりやや大田原宿寄りにあるが、沢宿を出ると直ぐに箒(ほうき)川を渡る。この川を渡って大田原までは薄葉(うすば)、実取(みとり)の村々を経由する。この実取の在所・大田原市実取字茨沢(ばらさわ)に
かさねとは八重撫子の名なるへし》曾良
の句碑が建っている(黒羽文化協会発行「奥の細道」より引用)。碑の側面には「芭蕉と小姫の出会の地に之を建てる」と刻してある。
 ↓次の句碑は、矢板市沢393澤観音寺境内に建っている(黒羽文化協会発行「奥の細道」より引用)。
かさねとは八重なでしこの名なるべし》曾良
〇日光北街道と奥州街道の合流点に矢板がある。芭蕉は矢板からいよいよ奥州街道に入り白河の関を目指した。その矢板に古社がある。「木幡神社」。芭蕉が参詣したかどうかは不明だが、古社であり参詣した可能性はある。
 ↓木幡神社楼門(重要文化財)
  
 ↓拝殿
 ↓本殿(重要文化財)



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