2019年6月11日火曜日

〇5-4(金) 宮崎県椎葉村「鶴富屋敷」重文

えびの高原から北上し帰路を辿る。椎葉村に「上椎葉ダム」「鶴富屋敷・重文」「八村杉」を訪ねる。人吉から椎葉村まで九州山地のど真ん中を縫う数十キロの道は国道265号線といいながら、素人の通る道ではない。高い山の中腹を削って開いた杣道で一車線・未舗装、クネクネ紆余曲折してカーブの先が見えない。人呼んで「酷道265号線」。
伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。1191(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。椎葉村の中心集落の家々の表札を一々確認して回ったが、椎葉村の姓は「那須」と「鶴富」の二つでほとんどを占めるというのは事実ではない。むしろ那須姓と鶴富姓はほとんどなかった。もっとも広大な村域に散在する何処かの集落にそんな成立ちの村落があるのかも知れないが。
椎葉村の人口は現在3000人弱(1960年には約11,000人)。
↓鶴富屋敷・重文








元来は茅葺


 ↓どじ(台所)


 ↓うちね(家人の住まい)
 ↓つぼね(主人夫婦の住まい)

 ↓でいの間(客間)


 敷居の上手を「オハラィ」、下手を「シタハラ」と呼び、この敷居によって身分の上下を区別した。
 ↓こざの間(神仏の間)

 欅一枚板の調度






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