2019年6月27日木曜日

★奥の細道紀行 第35章 殺生石 (せっしょういし)

奥の細道》《‥‥殺生石は温泉(いでゆ)の出(いず)る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。》
曾良随行日記』『(四月)十九日 ‥‥‥(湯元温泉神社で)与一の扇の的射残しの矢などを拝む。それより殺生石を見る。宿の五左衛門案内す。‥‥‥殺生石 石の香や夏草赤く露あつし‥‥』
「温泉神社」の奥に「殺生石」がある。殺生石の背後に那須岳が聳えているが、見えない。温泉神社の前面に湯本温泉等の那須温泉郷が広がっている。殺生石は那須温泉の泉源の如き位置にある。
整備された駐車場から見た殺生石。



  ↓お地蔵さんが無数に並んでいる。教伝地獄の始まり。
 ここのお地蔵さんの特徴。①手がドデカイ、②数珠もでかい。

 ↓教伝地獄。不良少年が親の跡を継いで僧になった。名は教伝。が、素行は改まらず悪僧だった。ある日思い立って殺生石見物に来た。そしてここで火炎熱湯の吹き出しに遭い命を落とした。その地に湯本温泉の有志が供養のため地蔵尊を祀った、その跡がこれ。

 ↓赤とんぼ。ピンピン生きている。芭蕉の時代から見たら毒気が弱まったか。

赤とんぼが無数に飛び回っていた。石に止まっているのだけを写してみた。どこが殺生石だと言いたくなる。餌の小虫も沢山生息しているはずだから。

 ↓行き止まり
 ↓殺生石
 ↓殺生石の由来「昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。しかし陰陽師阿部泰成に正体を見破られると、九尾の狐は那須野が原まで逃げてきました。ここでも九尾の狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は三浦の介、上総の介の両名に命じ遂に九尾の狐を退治しました。すると九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が毒石に向かって大乗経をあげ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。それ以来、人々はこの石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。」
 ↓芭蕉句碑  『飛ぶものは雲ばかりなり石の上』
この句は、芭蕉の孫弟子の作で、ここで芭蕉が詠んだ句は《石の香や夏草あかく露あつし》だという説が有力。何といっても『曾良随行日記』に「殺生石」に続けて《石の香や夏草赤く露あつし》と記されている。
 ↓湯の花を採っていた跡。今は採っていない。



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