2019年6月17日月曜日

★奥の細道紀行 第18章 日光東照宮奥の院

東照宮本殿境内まで昇ると、徳川家康公廟所の「奥ノ院」は、祈祷殿と神楽殿を結ぶ回廊を潜れば直ぐの位置にある。回廊を潜るとき、頭上に左甚五郎作と伝わる「眠り猫」を仰ぐことになるが、芭蕉の時代、この猫が今日ほどの名声を博していたかどうかは分らない。
奥ノ院入口前の回廊の蟇股(長押の上)に「眠り猫」が嵌め込まれている。
 ↓「眠り猫」
↓奥ノ院入口の門。
この奥に徳川家康公の廟所がある。石段の昇りが急で長いが、それ故に芭蕉と曾良が参詣を断念したとは思われない。
石段途中から東照宮諸殿の甍が見渡せる。
↓唐銅鳥居。後水尾天皇の宸筆勅額が掲げられている。
宝蔵。この中に朝廷から家康公・東照宮に送られた官符・宣命等が納められている。

↓拝殿



↓廟門。表と裏


家康公の廟所

家康公の廟。家康公が駿府城で身罷ったときその遺骸は遺言により久能山東照宮山頂の廟所に、西の方、毛利・島津に睨みを利かせて埋葬された。その後三代将軍家光が日光東照宮を造営したとき、家康公の遺骨がそっくり日光に移されたという説と、分霊されただけだという説がある。誰も久能山東照宮の廟所をあばこうとしないので真相は分らない。
 東照宮参詣後、芭蕉と曾良は『上鉢石町五左衛門と云う者の方に宿』っている(曾良随行日記)。《奥の細道》の文《(如月)丗日、日光山の麓に泊》《卯月朔日、御山に詣拝す》は日程が実際とひっくり返っていることに留意。芭蕉は3月晦日に上鉢石に宿り4月朔日に御宮に参詣したと書いているが、実際は4月朔日正午頃に日光山に着きその足で養源院(社務所)に紹介書を届けそこから大楽院に案内されそこで午後2時半過ぎ迄待たされてようやく御宮に参詣し、その夜上鉢石町五左衛門方に宿っている。上鉢石に宿泊したのは41日である。この五左衛門に芭蕉は興味をそそられたと見えて筆をわざわざ多く労している。《奥の細道
《あるじの云けるやう「我名を仏(ほとけ)五左衛門と云。正直を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も、打解(うちとけ)て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯(ただ)無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質最も尊ぶべし。》

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