2019年6月21日金曜日

★奥の細道紀行 第23章 玉生宿

奥の細道》《那須の黒ばねと云(う)所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごえ)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行(ゆく)に、雨降(あめふり)、日暮(ひくる)る。農夫の家に一夜をかりて、明(あく)れば又野中を行(く)》
曾良随行日記』『‥‥○大渡ヨリ船入(ふにゅう)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川(鬼怒川)ヲカリ()橋有。大形ハ船渡し。○船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上尅(午前9時半頃)ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着
一 同晩玉入泊宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル 
旧日光北街道は在所を縫う旧道として今も残っている。しかし国道461号船生(ふにゅう)バイパスが完成して在所の人にしか利用されていない。国道を漫然と走っていては玉生に至る旧街道の入口(国道バイパスと旧道(今は県道)の分岐点)を発見できない。
旧日光北街道を船生から東進して来ると.玉生(たまにゅう)の在所に着く。ここが旧日光北街道玉生宿
↑↓この案内標識はこの家の亭主が勝手に立てた。

《農夫の家に一夜をかり》た村がこの玉生宿(たまにゅうじゅく)。日光北街道を来ると玉生宿があるが、二人は玉生宿を目指して来たわけではない。道中雷雨にやられ続けここで日暮れて力尽きた。
曾良随行日記によると「船入より玉入(玉生)へ二里。未の上剋(上刻、午前9時半頃)より雷雨甚強(はなはだつよし)。漸く玉入へ着(く)。同晩、玉入泊。宿悪(やどあしき)(ゆえ)、無理に名主の家(に)(り)て宿か(借)」。芭蕉は「農夫の家に一夜をかりて」と一言で済ませているが実はこんな経緯があった。当初泊まろうとした宿屋はよっぽど粗末で待遇もひどかった。代わりに宿を借りた「農夫」とは実は「名主」。その苗字が「玉生(たまにゅう)」さんであったことは以下の次第で分った。
 ボクは玉生の在所で方向感覚を失って行ったり来たりとウロウロしていた。そのとき前記の「日光北街道・玉生宿」の案内を発見。この案内の前でセレナを停めてカーナビ検索をしたら何とまさにこの地点に「松尾芭蕉碑」があることになっている。降りて辺りを探索したが見当たらない。そこで石垣の上に案内標識をのせた家を訪ねた。玄関に入り「この辺りに松尾芭蕉の碑があると聞いたんですがご存知ですか」。出て来た若い嫁さんが「お父さ~ん」と呼んで替わる。亭主は話好きで親切に教えてくれた。「あることはあるが、素人が勝手に建てたもの(権威は全くない。訪ねるまでもない)」「日光北街道はウチの前を通っていた。案内板はワシが立てた」「芭蕉を一泊させた名主の名は玉生さん。この辺り一帯の地主だった。ウチは玉生さんの敷地の一部に建っている」、どうやらこの親爺さん、「松尾芭蕉一宿の地」の碑は自分の手で自分の敷地内に立てたかったらしい。それでも蔑む石碑の在り処を教えてくれた。150mほど離れているそう。
行ってみるとそう簡単に問屋が卸してくれない。夕闇が降りてくる中、やっとのことで入口の手掛かりを得た。
↑この標識は元は道端の見える所に取り付けられていたと思われるが、ボクが発見したのは民有空地の奥隅。そこに転がされて裏返っていた。標識が転がっていた近くの小道を入ると、石碑らしきものがあった。
↓「芭蕉一宿之跡」と刻してある。日付は「元禄二年四月二日」。この日付は芭蕉と曾良が日光を発ったまさにその日。
玉入宿(今、玉生)は、栃木県塩谷町に所属する。

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