2019年6月1日土曜日

★《奥の細道》紀行連載開始 第1章 深川芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)

おくのほそ道 序文
《月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まず)心にかゝりて、①(すめ)る方(芭蕉庵)は人に譲り、②杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)(採茶庵)に移るに、
草の戸も住替る代()ぞひなの家
(元住んでいた家には子供のいる家族が入ってひな人形も飾られた)
面八句(おもてはちく)を庵の柱に懸置(かけおく)
★「杉風」は芭蕉の門人

第1章 深川芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)
深川芭蕉庵跡(現芭蕉稲荷神社)に立った。


「深川芭蕉庵旧地の由来」碑があった。その引き写し。「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、‥‥地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽した。しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した」
★筆者註・この由来書は正確でない。芭蕉は奥の細道の旅に出る前この地に在った「芭蕉庵」を処分して近くに在った門人杉風(さんぷう)の別宅「採茶庵(さいとあん)」に移りそこから旅立っている。
芭蕉稲荷神社
 ↓石碑「史蹟・芭蕉庵跡」
 ↓石の蛙
 ↓この蛙は、この地で発見された・芭蕉愛好の石造蛙とよく似ている。本物は江東区芭蕉記念館に展示されている。
 ↓右の句碑「ふる池や蛙飛びこむ水の音」

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