2012年10月15日月曜日

◇「日本仏教は釈迦の教えと全然違う」をひとまとめに。


お釈迦様がその生涯を懸けて示されたことは、ボクなりに整理すると次の様なことではないか。
守るべき戒律。
悟りを得るための修行の段取り・方法。
悟り=煩悩からの解放=涅槃の境地=輪廻からの解脱(悟り、涅槃に入ればどうして輪廻から離脱できるのか、その仕組み・機構はよく分からない。が、お釈迦様がそう説かれるのだから信ずるしかない)。
④釈迦の教説の根本にあったモノは慈悲。
釈迦在世中から弟子達が釈迦教団を形成していた。釈迦の説いた戒律・修行方法は釈迦没後、弟子から弟子に継承された(その中から悟り・涅槃に達した者が出たかどうかは分らない。第二の釈迦が出たという話を聞かないから、多分出なかった)。
釈迦仏教についての特記事項。
釈迦は修行によって個々人が救済され得る可能性を説いたのであって、人類全体をまとめて救済することは悲願の外にあった。釈迦仏教の世界には、大乗仏教の説く・各種の衆生救済メニューを担う如来や・この世に留まって衆生を救済しようとする多くの菩薩は全く存在しなかった(大乗とは、衆生を乗せる大きな乗り物の謂い)。大乗仏教は、釈迦入滅後約650年後に北インドに現れた大思想家・龍樹の構想にかかる。
釈迦は経典を一切作らなかった。「不立文字(ふりゅうもんじ)」。教えは身を以って弟子から弟子に伝承された。さすがに百年も経過すると、教団内に正統・異端論争が生じた。一次結集(けつじゅう)が開かれ伝承されてきた釈迦の教えの整理統合がなされた。結集は三次まであったらしい。その成果は、阿含経の中にその一部として姿を留めていると言う。
釈迦は霊魂の存在の有無やその消滅不滅について一切語らなかった。輪廻していく実体が何であるかは不明のまま。
釈迦仏教はアショカ王の時代に北インドで隆盛期を迎えたが、その後は衰微の一途を辿りやがて龍樹が大成した大乗仏教に取って代わられ、それもやがて密教化したうえで、ヒンズー教・ジャイナ教に吸収されてインドでは完全に消滅した。中国唐代に玄奘三蔵が経典を求めて北インドに入った当時仏教は既に消滅過程に入っていたらしい(玄奘は仏教寺院の余りの荒廃に呆然とした)。元々釈迦仏教は、インドの土俗宗教を基礎にしていたので吸収消滅は自然の成り行きと言えば言える。
釈迦仏教は消滅したが、お釈迦様は今もインドではヒンズー教の聖人の一人として尊敬され、仏蹟は保護されている。シャカ国は現在のネパール辺りにあったらしい。

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(二)。般若経・龍樹、富永中基。

釈迦教団は、釈迦の教えた戒律を厳守し・釈迦の示した修行の段取り方法を踏襲し、悟りを開き煩悩から解放され、涅槃の境地に入って輪廻から解脱することを目標とした。釈迦仏教には、通奏低音として無常観が流れ・光芒として大慈悲が溢れていた。が、釈迦教団は修行のための修行教団に堕して行ったと思われる。AD150年前後になると北インドに「般若経典」が雨後の筍のように出現した。今日残る大蔵経典の中に各種「般若経典」が600巻も存在する。般若は漢訳すれば智慧にあたる。この世を「空」と観る世界観が示され、この世で衆生を救済する悲願を立てた菩薩の行が示される。大乗仏教の勃興である。そして天才・龍樹が北インドに登場する。彼は釈迦の無常観を発展させた「空」論と釈迦の神髄をなす「慈悲心」に基づき大乗仏教を集大成した。龍樹の「空」論は、現代の分子生物学者・福岡伸一氏の「生命の動的平衡」論によく似ている。「行く河の流れは絶えずしてしかも元の河にあらず」。物事は、それ自体というモノはなく相互依存によって成り立ち常に転変する。龍樹はまた釈迦の大慈悲から演繹して彼岸に如来・此岸に菩薩が衆生救済のために大活躍する大乗仏教の壮大な構想を樹立した。龍樹の大乗仏教は北上を始め、西域に入ると東進して中国に入り、朝鮮半島を経由して遂に日本に到達した。西域でも独特の経典が作られ加わえられたと思われる。そして日本で独自の日本仏教が鎌倉時代に至り成立する。日本仏教の成立には大前提があった。即ち諸々の仏教経典は釈迦の教説そのものであることを疑わないという前提。この大前提を根底から疑う文献学の天才が江戸時代中期に出現した。富永中基(とみながなかもと)。大阪商人の息子。彼は独自に開発した文献学的手法により仏教経典に批判を加え、大蔵経典はすべて釈迦の教説ではなく、時代を経ながら沢山の思想家の思想が雪が降り積もるように加上されてきたものであることを解明した。この説によると妙法蓮華経(法華経)は釈迦の最終最高完璧な教説の経典たる地位を失い天台宗・日蓮宗は立場を失う。富永中基は、経典はすべて(たとえ方便として説かれたものであれ)釈迦の直説(じきせつ)と信じて疑わなかった仏教界を肇とする世間の爪はじきに遭い不遇の中に埋もれ死んだ。亨年三十二歳。その後、富永中基の著作は埋もれたまま誰の目にもとまらなかった。それを発掘したのは、京都文科大学(京大文学部)教授・内藤湖南。
次回は、日本仏教の独自性・特殊性について。

日本仏教は釈迦の教えと全然違う(三)

昨日、埼玉県熊谷市の妻沼(めぬま)歓喜天(かんぎてん)「聖天堂(しょうてんどう)」が今年国宝に指定されたことを書いた。妻沼歓喜天は真言宗高野山派の末寺。密教寺院。結構な話の糸口ができたので密教についてボクの知見を記そう。
ボクは仏教と謂われている宗教に大きく分けて三種類あるとみている。
釈迦仏教。大乗仏教。密教。
釈迦仏教はそこで発祥しそこで一時隆盛した北インドでは比較的早くに完全消滅した。取って代わったのは龍樹が大成した大乗仏教。それも、西からイスラム教の圧迫を受け、南から新興の土俗宗教・ヒンドゥー教に蚕食されて衰退消滅の道を歩んだ。玄奘三蔵法師が仏典を求めて北インドに到達した頃は既に大乗仏教は衰退し、の密教が、南インドを基盤としたドラヴィダ族土俗の宗教から発展したヒンドゥー教に妥協しヒンドゥー教の神々・守護神・利益神を教義に取り入れ、宇宙の真理と一体となる鍵である呪文(真言)と秘儀を取り入れて生き残りを図った。しかしそれは墓穴を掘るのと同じことで遂にヒンドゥー教・ジャイナ教などインド土俗の宗教に吸収されて消滅した。
しかし釈迦仏教は上座部仏教としてスリランカを経由してミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアなど東南アジア地域で生き残った。この東南アジアに流布された仏教のことを「小乗仏教」と日本では呼ぶが、この呼称は大乗仏教側からそこでの仏教を軽侮するために名付けたもので、慈悲心を持つ者なら使うべからざる言葉。東南アジアの仏教は釈迦の教えによっぽど近い。
釈迦教団が分裂した時、上座部と大衆部に別れた。大衆部から大乗仏教が生み出され、それが北インドを一時席巻し、そしてヒンドゥー教・ジャイナ教に吸収され消滅したことは前述。しかし大乗仏教は北インドで消滅する前既に北上を開始しさらに西域に入って東進し続けていた。遂には中国に入りさらに朝鮮を経由して日本にまで到達した。聖徳太子の摂政時代のこと。中国では大乗仏教は宋の時代には衰退し土俗宗教・道教に殆ど吸収された。今も大乗仏教が堂々と生き残っているのは日本くらいしかない。
その日本では、平安時代前期になると従前飛鳥・奈良時代に舶来した大乗仏教に飽き足らず、密教の招来が待望されるようになった。密教とは語義的には「秘密の宗教」という意味。護摩を焚き加持祈祷をするスタイルが従前の仏教と全然違っていた。呪文(真言)を称えて宇宙の神秘の力と同化し厄を除け利益を齎す。呪詛により人を殺す力さえ有する。空海・弘法大師がこの密教の体系を一式、中国から持ち帰った。以後密教が日本仏教の本流となって、鎌倉仏教が革命的に登場するまで続く。ところが密教が日本仏教界の覇権を握った頃、本場インドでは密教はヒンドゥー教・ジャイナ教などインド土俗の宗教に吸収される過程に入っていた。しかもそもそも密教がインドに発生した縁由は、新興のヒンドゥー教・ジャイナ教などインド土俗の宗教の発展圧力に大乗仏教側が抗し切れずにそれらと妥協を図って生き延びようとしたことにある。宇宙の真理・呪文(真言)・秘儀・諸々の天部の神々・明王達、これらはその淵源を南インド・ドラヴィダ族の土俗宗教・ヒンドゥー教の中に見い出せる。現代から見ると、密教は時代錯誤的に尊重されて日本に齎されたというしかないのでは。
密教が生き残ったルートがある。それはチベット大高原。独特の教義となりラマ教として現代も信仰されている。ラマ教はチベット高原からモンゴル平原に広がって現代に至っている。
ここで、埼玉県熊谷市の妻沼(めぬま)歓喜天(かんぎてん)「聖天堂(しょうてんどう)」に話題を戻す。「歓喜天」は密教にしか登場しない。まさにヒンドゥー教の神の一つ。歓喜はsex的歓喜を意味する。インド土着の思想には、sex的歓喜は宇宙の真理に通じるという観念がある。ヒンドゥー教の神々の中に象徴的性描写像と見られるモノが数々ある。歓喜天はその系統の天部の神。日本人には馴染みにくいんじゃないかなぁ。
日本仏教は鎌倉時代に入った途端に飛躍し変革される。まさに世界にまたとない日本仏教が成立する。次には多分話が鎌倉仏教に跳ぶ。アッ触れ損なったが、禅宗はボクの観方では
釈迦仏教によっぽど近い。実際禅宗寺院の多くの本尊は釈迦如来。

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(四)

奈良時代は南都七大寺・大乗仏教の全盛期だった。桓武天皇は南都の大寺の権勢から自由になるため長岡京、次いで平安京に遷都した。平安時代は、比叡山延暦寺と高野山金剛峰寺が仏教界の覇権を制した。密教の時代と言っていい。護摩を焚き加持祈祷に励んだ。護摩・加持祈祷の本山は空海の開いた高野山だったが、比叡山も最澄の弟子たちが密教を中国に学んで導入し天台密教を大成した。比叡山はさながら仏教総合大学の趣を呈した。中心教学は法華経学であり・悉皆有仏性を旨としたが、浄土教学を研究する者あり、禅宗学を専修する者ありと実に多彩だった。真言密教・高野山は真言・秘儀を修得して即身成仏することを旨とした。平安中期からは浄土教も隆盛となった。仏教は平安時代末期まで国家・貴族のための宗教だった。それが、有力武装農民・武士が天下を握り鎌倉時代に入ると仏教界に革命が起きた。仏教は庶民にも普及した。比叡山を下りた学究僧達が現代にまで系譜を引く有力な宗派をそれぞれに開き庶民を導いた。以下の開祖はいずれも比叡山で学究修行を積んだ高僧である。
法然・親鸞浄土教・浄土真宗。栄西・道元禅宗(臨済宗・曹洞宗)。日蓮ー法華宗(日蓮宗)。
北陸地方は何と言っても真宗王国・浄土教。そこで法然上人の話から。「上人・聖人(しょうにん)」という称号は、正式に受戒していない私度僧(勝手に僧になっている人)の中で高徳・徳望の篤い僧をそう呼ぶ。法然は普通「上人」と呼称されるが本当は比叡山で若いうちに正式に受戒し国家公認の正式僧だった。が、浄土教に嵌り衆生救済を悲願として山を下りるときその地位を捨てた。それで以後法然上人と呼ばれるようになった。浄土教は阿弥陀三部経を根本経典とする。他の経典は殆ど無視する。如来は彼岸の阿弥陀仏のみ。阿弥陀如来の衆生救済の悲願におすがりする一神教。如来の使者として此岸で観音菩薩・勢至菩薩が活躍する。阿弥陀如来の慈悲にすがる方法は「南無阿弥陀仏」と称えるだけ。称名だけで阿弥陀如来が観音・勢至両菩薩をこの世に派遣して下さる。この点、日蓮宗も「南無妙法蓮華経」とお題目を称えるだけで法華経に約束された救済を受けられるというのと似ている。とかく鎌倉仏教は安直さが売り。庶民でも仏教世界に簡単に入れるようにした。しかし阿弥陀経に説いている「念仏」とは本来は仏を心に念(おも)うことで、比叡山・三昧堂では阿弥陀経・浄土教の念仏の仕方を研究し修行してきた。三昧堂での念仏修行は半端じゃない。この堂の隣で坊を構え浄土教・阿弥陀経を研究したのが親鸞上人。彼は、法然の浄土教を教義的・理論的に徹底し遂に行き着く所まで行った。

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(五)

親鸞は、阿弥陀経典に書いてある弥陀の本願を信じた。阿弥陀如来は衆生救済の悲願・本願を立てられた。救済はこの弥陀の本願におすがりするしかない。彼岸・浄土には阿弥陀如来しかいない。この阿弥陀如来の衆生救済の本願にすがり頼るしか浄土に往生する途はない。自力救済はない。他力本願(弥陀の本願にすがって救済される)しかない。弥陀の本願にすがる方法は「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名号を唱えるだけでよい。阿弥陀如来を厳密な方法で心に思い描く念仏の必要はない。ここで釈迦が出家僧に課した戒律は無意味化した。修行も無意味化した。何せ「善人なおもて往生す。況や悪人においておや」の世界になったのだ。親鸞は教義に忠実に自身に肉食妻帯を許した。親鸞開祖の浄土真宗では公然と肉食妻帯が行われることになった。親鸞にすれば、釈迦の教えの阿弥陀教に従えば必然この様な結論になる・だから釈迦の教義に外れていないというのだろうが、富永中基の指摘するように阿弥陀経典が釈迦の教えと無関係で後世の大乗思想家達の創作だとしたら一体どうなるのか。浄土真宗は、釈迦の教えと全く無縁に鎌倉時代当時に新興した宗教となる。親鸞の著した「教行信証」を玉条・根本経典とする浄土真宗は釈迦仏教と無縁の新宗教と見れば分りがいい。織田信長は伊勢長島の一向一揆の降伏を受け容れるかの如く見せて一揆衆を一網打尽にして虐殺した。その信長の非道を人は突く。しかし信長は論理に徹した人だった。「厭離穢土・欣求浄土」「称名念仏だけで浄土往生」の教義どおりにしてやるのだから文句があるかと思っていただろう。死後にも霊魂が残る・永遠に残るなどということは、釈迦は一言も説かなかった。親鸞もそのようなことは説いていない。それでは西方浄土に往生するモノーーその実体は一体何なのか。日本で独自の展開を遂げた日本仏教には、その論理・教義体系の根本に不確定性がある。

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