2013年9月27日金曜日

〇9/15(日)岡崎市滝町「滝山寺(たきさんじ)」。重文・三門と本堂を探訪。見応えのある仏像と出遭えた。


滝山寺(たきさんじ)は、愛知県岡崎市滝町にある天台宗の寺院。鬼祭りで有名。滝山東照宮が隣接している。

『滝山寺縁起』(現存するものは近世の写本)によれば、 奈良時代、 天武天皇の命で役行者(役小角)が薬師如来像を祀る吉祥寺として創建したとされ、 保安年間(1120 - 1123年) 天台宗の仏泉上人永救が再興したという。役小角は、奈良時代の伝説的な山岳修行者である。役行者草創の伝承をもつ寺院は日本各地にあり、その多くは山岳信仰、水源信仰に関わる山寺である。本寺もそうした山岳信仰の場であったものが、12世紀の僧永救によって寺院としての形態を整えたものと思われる。
平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142年-1205年)が源頼朝の従兄弟であったため、鎌倉幕府の庇護を受けた。寺に伝わる観音菩薩及び両脇侍像は、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)、寛伝が頼朝追善のため仏師運慶・湛慶父子に作らせたものといい、様式的にも運慶一派の作と考えられている。
南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け、近世初期には 徳川家康の庇護を受けた。
正保元年(1644年)には徳川幕府3代将軍徳川家光が境内に滝山東照宮を創建した。滝山寺はその別当寺となったが明治6 神仏分離により、滝山東照宮は独立し、別法人となっている。
重要文化財(国指定)
本堂- 室町時代前期の建立。寄棟造、檜皮葺き。
三門- 鎌倉時代末期から室町時代前期の建立。入母屋造楼門、杮(こけら)葺き。
↓重文・三門。表側

↓裏側・境内側。
↓三門・側面。右が表側。


伝承の・切腹して果てたという飛騨の匠の塚。伝承の詳細については、後日補充するかも。
 〇滝山寺への登り口。滝山東照宮の登り口にもなっている。幕末までは、滝山寺と東照宮は神仏習合して一体化していた。
三門と本堂境内登り口との間は1kmほどもあろうか。その間は、今は民家がまばらに建つのみ。しかし、滝山寺の隆盛時には、その間に塔頭寺院や堂宇が建ち並んでいたという。立派な三門をみれば・さもありなんと思える。


本当は掲載した写真の倍ほどの石段を昇る。高台の本堂境内に到達すると、姿の好い重文・本堂が待っている。中世建築の流麗さと貫禄を有している。この境内で「鬼祭り」が行われる。右端に見える青い屋根が、滝山東照宮。


本堂・裏側
鐘楼。現在・本堂境内に残っている伽藍・堂宇はこれだけ。
〇夕暮れが近い。急いで今度は坂道を下って行く。
↓滝山寺宝物殿。ここを拝観したかった。しかし時刻はもう五時半過ぎ。希望は持っていなかったが、万一の巡り会わせということもある。
その巡り会わせに出遭った。宝物殿の方に曲がって歩を進めると、宝物殿から灯りが漏れている。玄関を見ると訪問者の靴が二足脱いである。中に入って覗いてみると、客が二人いて・館主が説明している。ボクが「いいんですか」と訊くと「どうぞ、どうぞ」の声。幸運に巡り会った。
〇重文・木造観音菩薩立像及び梵天・帝釈天立像- 収蔵庫に安置。像高は観音像174.4cm、梵天像106.5cm、帝釈天像104.9cm。各像の表面の彩色は後世のものである。観音立像の脇侍に梵天・帝釈天を配するのは、宮中清涼殿に安置されていた「二間観音」と同様の構成である。これらの像は、寺の縁起によれば、鎌倉時代の僧・寛伝が、母方の従弟にあたる源頼朝の追善のため、仏師運慶・湛慶父子に作らせ、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)に完成、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納入したという。X線撮影の結果、観音像の像内、口の辺に人間の歯らしきものが固定されているのが確認されている。この三尊像は、近世の彩色で覆われているが作風等から伝承どおり運慶一派の作と認められている。↓重文・聖観世音菩薩立像
重文・梵天立像
重文・帝釈天立像

遺憾なことに・鎌倉時代仏なのに三尊とも綺麗すぎる。肌合・色合すべてに後世(多分・江戸時代)の加工がある。これが、この三尊像の文化財としての値打を致命的に毀損している。この聖観音三尊像は、本堂の秘仏が納まる厨子の裏側に立っておられたらしい。

薬師如来坐像
日光菩薩・月光菩薩立像
これら薬師三尊像は、本堂・秘仏の御前立仏像らしい。


 

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