快晴、しかし黄砂がひどくて景色が見えなかった。
呉港へ。旧海軍工廠がどうなったか、それを見たかった。吾輩が先ず訪れた埠頭には「深田サルベージ」の世界一巨大なクレーン船が繋留されていた。実はこれを目印にこの埠頭に来た。埠頭の先端で釣師がチヌ(黒鯛)の大物を大漁していた、ほぼ入れ食い状態。気分が昂揚して御機嫌好さそうなその人に話しかけて色々な情報を仕入れた。目の前の世界一のサルベージ船は昨日「音戸(おんど)瀬戸」に二本目の大橋梁を架けてきたばかり(音戸瀬戸は呉と倉橋島を分けている海峡)。旧海軍工廠を引き継いだ石川島播磨重工業の造船所は黄砂に霞む遥か向かいの港湾にある。戦艦大和を建造したドックがあった地点も誇らしげに指示してくれた。その隣に軍港が今もある。軍艦が7、8隻並んでいる。そちらを目指してセレナを駆った。旧海軍の専門技術学校跡地の駐車場にセレナを乗り入れて撮影ポイントを求めて歩き回った。岡の上にも登った。戦前ならスパイ容疑で捕縛されている。軍艦とドックの写真、結構好いのが撮れたんじゃないか。
旧海軍兵学校がどうなったか、それも見たかった。音戸瀬戸を渡り、倉橋島へ。さらに早瀬瀬戸を渡って江田島へ。早瀬瀬戸は軍艦の通行は不可、音戸瀬戸は戦艦級の通行は不可。従って呉軍港への出入口は広島湾方面だったろう。行って見ると旧海軍兵学校の施設は全部そのまま存在していた。そして海上自衛隊の幹部候補生の教育機関として現役で機能していた。明治時代の赤レンガ造の校舎棟、大正時代の白亜の大講堂、昭和の西部校舎がすべてそのまま。呉も広島も空襲で壊滅したのに、目と鼻の先の海軍兵学校は無傷だった。戦後米軍が進駐してきて海軍兵学校を接収し司令部にした。そういうことであった。米軍はちゃっかりしている、戦後処理の都合まで冷静に考えていた。お蔭で海軍兵学校の明治・大正・昭和各期の建造物群はそのまま今も歴史的美観として、また現役の「一術」兵学校として機能している。内部を見学させてくれる、案内付きで。実は吾輩が門内に滑り込んだのは最終回の15:00に遅れること10分。ところが入れてくれた。カメラ持ち込みも可。この大らかさが好い。案内者の分厚い胸を張った大声の説明も明快で好い。心残りはただ一つ、海軍カレーを食べる時間がなかったこと。海軍カレーを食べるためだけにまた来るっていう気にはならないし。出門は午後5時。広島原爆記念公園に行くという日程はなしにして、呉自動車道を北上し山陽道に入る。ここは宮島SA。
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