2011年5月2日月曜日

4/30(土)、赤穂浪士、吉備津&吉備津彦神社、備中高松城、最上稲荷、備中国分寺

早朝出立。先ず赤穂市の「大石神社」を再訪。娘達が小さかった頃(20年も前)に一度来た。「大石神社」到着が午前七時前で未だ閉門。門前の四十七士像を観察していたら開門。前に来たときには確か四十七士像は並んでいなかった。この四十七士の像は全く戴けない。中国の兵馬俑風に造ってあるんだが、赤穂浪士に似ても似つかない(似て非なるものではない)。得物(武器)も全然違う。そもそも赤穂義士と秦軍の兵隊を同視する発想が貧し過ぎる。赤穂市民にも不評だろう。撤去するしかない。「家老大石家長屋門」は昔通り。「赤穂城」、城は規模が大きくなり城砦らしくなっていた。

岡山市へ。先ず「吉備津彦神社」を再訪。備中国一ノ宮。拝殿、本殿が四重連になっている。こんなに重厚な神社だったかなぁ。吉備中山の裾を半周して「吉備津神社」へ。国宝・本殿が圧巻。長い長い回廊も昔のまま。

秀吉の水攻めに遭った「備中高松城址」も遠くない。娘達が小さい頃に来たことがあったが、当時の吾輩に折角の歴史的風景を見る目がなかった。それで再訪。本丸、二の丸、三の丸跡に立った。そして「蛙ヶ鼻(かわずがはな)」の築堤址まで歩いて行って残された土手の上に立った。清水宗治の自刃跡、首塚もあった。高松城は元々沼地・低湿地に築かれ攻められ難かった。そこを黒田官兵衛に逆手に取られた。元々水攻めに致命的に弱かった。

「蛙ヶ鼻」に至るルートの目印が赤い巨大な大鳥居。「最上稲荷」の鳥居。吾輩は不覚にも「もがみいなり」と読んだが、本元を訪ねてみて「さいじょういなり」と読むことを知った。その正体は日蓮宗の巨大な現代建築で構成された大寺院。最上稲荷「神社」とは言わないらしい。伏見稲荷は伏見稲荷神社と名乗るが、ここは神社という呼称を付けない。「豊川稲荷」と似た感じか。豊川稲荷も豊川稲荷神社とは称さない。日本三大稲荷の一つと自称していた。門前町が細長くそれなりに形成されている、が、商売になっているように見えない。街並に品格が乏しい。

「備中国分寺」の五重塔を見に行く。再訪。「こうもり塚」も再訪。「備中国分尼寺跡」を探訪。歩いたァ。

瀬戸大橋を渡り、善通寺市の道の駅「ふるさとパークみの」に到着。天然温泉・大師の湯に浸かった。

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