拝殿
国宝・本殿三棟。向かって右から第一殿・第二殿・第三殿。
↓右から第一殿と第二殿
↓国宝・三殿
↓右から第二殿と第三殿
↓左・春日神社、右・宗像神社。いずれも重文。
↓春日神社
宗像神社
↓参詣者休憩所に掲示してあった祭りの写真の一枚。宇陀市上芳野に鎮座する「惣社水分神社」から時代行列を組んで「宇太水分神社」まで渡御してきて国宝重文・本殿の前で威勢を示す惣社の神輿。この神輿は重文。惣社水分神社の宝物館に納まっている。
2012年3月31日土曜日
〇奈良県桜井市「安部文殊院」
〇阿部文殊院を探訪し、宇陀路へ。国宝・宇太水分(うだみくまり)神社、惣社水分神社探訪。
雨中奈良に入る。そして通過し、天理から桜井へ。桜井市域に入ったときにはいつしか安部文殊院を探訪することに決定していた。文殊院に入ったときはもう午後三時近くだったか。意外だったのは、安部文殊院は「安倍仲麻呂」の出生地だそう。巨大な獅乗文殊菩薩像に逢えた。ちと面白くなかったのは、駐車料500円、拝観料700円という割高さ(抹茶・菓子のサービス付きだが)。一見の価値はある。午後4時過ぎ大宇陀を目指し「宇太水分(うだみくまり)神社」と「芳野水分神社」探訪へ。「宇太水分神社」は再訪門。この神社は只者ではない。田舎モノと侮ってはならない。国宝の本殿が三棟も並んでいる。本殿はいずれも同形・春日造の一間社で小さい。それが国宝になったのは、第一殿の棟木に元応2年(1320年、鎌倉時代末期)の墨書があり、他の2棟も同時の建立と推定されるところ、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古であることから。この数文字の墨銘がなければ、この3棟の小本殿は精々で重文指定だったろう。国宝指定と重文指定の分かれ目は案外こんな所にあることが多いので、必ずしもモノの優劣で差がついている訳ではない。重文の中にも超国宝級の勝(すぐ)れモノがあるし、国宝にも由緒正しさが値打の二流モノもある。「宇太水分神社」の本殿はモノも国宝級。「芳野水分神社」は本称は「(上芳野鎮守)惣社水分神社」という。こちらは本物の田舎の神社だった。この地方最大の祭りは「惣社水分神社」の神輿が「宇太水分神社」まで渡御する行事だそうだが、その神輿が重文。その後夕暮れ迫る中「大蔵寺」まで足を伸ばした。この寺名、白洲正子の本の何処かに登場していたような気がして興味が湧いた。細い脇道に逸れる。車一台分の山道を行くと何と道脇に「観光・不可」の立看板がある。時刻も遅いし、寺の姿も見ずにバックで来た道を戻ることに。途中無理に方向転換を敢行したら脱輪した。四輪駆動車は有難いもの、無理矢理脱出した。セレナの底と車輪は不気味な悲鳴をあげていた。老セレナをまたも傷めてしまった。今夜は大淀の道の駅まで行って泊まるつもりだったが、大宇陀に「道の駅・宇陀路大宇陀」があった。お誂え向きなのでここに泊まることに。街の中なので電波の状態も好いに決まっている。
3/31(土)、ひどい雨、睡魔に襲われて黒丸PAで寝ていたら11:40になった。
朝五時半、南条SAで目覚めたら雨、雨脚が強い。出発は結局八時。道中雨脚は強くなるばかり。睡魔の襲来に悩まされ続ける。堪らず黒丸PAで仮睡をとる。それが九時、目覚めたら何と11:40。これから奈良に入っても大した探訪にならない。今日はほぼ潰れだが、この雨じゃどっちみち旅にならない。天気予報では雨のち晴れと言っていたが、この分じゃぁ「のち」というのは夜のことだろう。今思い出したが、吉野・金峯山寺蔵王堂の秘仏本尊が3/31から五月まで開帳されている筈。国宝・仁王門の大修理のための資金捻出事業の一環らしい。明朝は一番に吉野山に入り駐車場を確保して巨大な蔵王権現三尊像を拝んで来よう、写真で見てきたがそれは物凄い大迫力。一見の価値はある。南条SAの出発に時間を取られたのは、宇陀路の探訪先を検討していた。宇陀路の代表は長谷寺・室生寺だが、それ以外にも一日掛けて周る値打のありそうな寺社がかなりあると直感した、地図を睨んでの話だが。正午を過ぎた、それでは奈良に向けて出発。
〇3/30(金)午後4時40分七尾を出立。週末旅行、目標は定まっていない。奈良・伊勢・美濃方面を目指す。
午後7時、北陸道・南条SAに入った。夕食に越前蕎麦を食いながらTVニュースを見ていたら、関西方面の明日の天気予報は雨のち晴れ。東日本は大風が吹き荒れるそう。どこでどんな感動に回り逢えるか、サイコロを振り振り行く旅。空振りの可能性もある。
2012年3月30日金曜日
〇金剛山登山の始発「高天彦(たかまひこ)神社」、天孫降臨の地か。
金剛山麓をさらに北上したら「高天彦神社」があった。御所(ごせ)市。車道から外れて古い参道がある。
来た道を振り返ったら、絵になる構図・風景があったので撮影。
神社が望める位置に来た。
参道
高天彦神社・鳥居。由緒書によると「御祭神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。由緒・天照大神の子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に本社の御祭神の娘、タク幡千々姫(たくはたちぢひめ)が嫁ぎ、御子のニニギノミコトが高天原から降臨される。その神話に言う高天原(たかまがはら)がこの台地である。御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の豪族として栄えた。延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官幣に与ってきた神社である」
中鳥居と本殿
本殿。
↓右赤い屋根が本殿。左が「三十八社」。
↓「祭神・葛城三十八皇神」と認(したた)めてある。
本殿
↓この写真では左側を行く御老人に注目して欲しい。この老人、ダラダラ登りの坂道をスタスタ歩きながら、撮影している吾輩に挨拶してくれた。出逢う在所の人にも挨拶していく。トレッキングシューズを履きリュックを背にして足取りは見事なものだが、年齢は無慮80歳を越している。吾輩などは写真の地点で既に顎が出て脚は凍結している。
この神社はどうやら金剛山登頂の始発地らしい。あの爺さんはスタスタ確かな足取りで山頂を目指して行ったし、見ている間に次々と身支度をした人々が山中に消えて行く。ここで吾輩は金剛山頂に千早赤阪側からケーブルで登ったときのことを思い出した。山頂に「転法輪院」という醍醐寺派修験道の寺院・道場があり、その境内に認定登頂回数の大番付表が建てられていた。驚くべきことに最高の人は一万回を越していた。3,000回以上の人でも結構いる。千回程度は虫けら同然といった有様。あの老人、あの調子では多分日課のように登頂している。在所の人に顔が利く筈。ひょっとすると登頂回数最高峰の達人だったかも。神様に近い、有難い。
来た道を振り返ったら、絵になる構図・風景があったので撮影。
神社が望める位置に来た。
参道
高天彦神社・鳥居。由緒書によると「御祭神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。由緒・天照大神の子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に本社の御祭神の娘、タク幡千々姫(たくはたちぢひめ)が嫁ぎ、御子のニニギノミコトが高天原から降臨される。その神話に言う高天原(たかまがはら)がこの台地である。御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の豪族として栄えた。延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官幣に与ってきた神社である」
中鳥居と本殿
本殿。
↓右赤い屋根が本殿。左が「三十八社」。
↓「祭神・葛城三十八皇神」と認(したた)めてある。
本殿
↓この写真では左側を行く御老人に注目して欲しい。この老人、ダラダラ登りの坂道をスタスタ歩きながら、撮影している吾輩に挨拶してくれた。出逢う在所の人にも挨拶していく。トレッキングシューズを履きリュックを背にして足取りは見事なものだが、年齢は無慮80歳を越している。吾輩などは写真の地点で既に顎が出て脚は凍結している。
この神社はどうやら金剛山登頂の始発地らしい。あの爺さんはスタスタ確かな足取りで山頂を目指して行ったし、見ている間に次々と身支度をした人々が山中に消えて行く。ここで吾輩は金剛山頂に千早赤阪側からケーブルで登ったときのことを思い出した。山頂に「転法輪院」という醍醐寺派修験道の寺院・道場があり、その境内に認定登頂回数の大番付表が建てられていた。驚くべきことに最高の人は一万回を越していた。3,000回以上の人でも結構いる。千回程度は虫けら同然といった有様。あの老人、あの調子では多分日課のように登頂している。在所の人に顔が利く筈。ひょっとすると登頂回数最高峰の達人だったかも。神様に近い、有難い。
〇御所市「極楽寺」
2012年3月29日木曜日
〇紀ノ川高野山口「天野の里」、西行法師の妻子の悲話。
丹生都比売神社から天野の里を走り回り、念願の西行の妻と娘の遺跡を巡礼することに。
↓「西行妻娘宝キョウ印塔」の案内標示発見。
村の中の丘の上を行くとさらに案内が。
とうとう到達。
「二基の宝キョウ印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。向かって右より二基は、1372年建立され、左二基は1449年に建立されました。後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています」
村の中の丘の上を行くとさらに案内が。
とうとう到達。
「二基の宝キョウ印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。向かって右より二基は、1372年建立され、左二基は1449年に建立されました。後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています」
↓伝・西行の妻と娘の宝キョウ印塔
↓伝・曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎の墓
↓宝キョウ印塔から数百m行くと丘の上に「西行堂」がある。
↓西行堂
↓西行堂の脇に西行の妻・娘の墓と伝えられる小さな墓碑がある。
「西行が出家してまもなく(吾輩註・西行の出家は23歳頃)、妻も尼となり1142年ここに庵を結び読経三昧の生活を送っていました。娘も出家の志があって、京都より15歳ばかりにて高野山の麓の天野と聞いただけの一人旅。やっと天野にたどり着き、母娘二人で仏門に入り、生涯を終えたのでした。娘の亡くなったのは1199年秋彼岸と言われています」。西行の俗名は「佐藤教清(のりきよ)」、御所の北面の武士だった。23歳頃思うところがあり妻子を捨てて出家した。2、3年間京・嵯峨野辺りに庵を結んだ後旅立ち、30代は高野山で仏道修行をした。40代になり全国を旅するようになった。妻と娘が天野の里に庵を結んだのは、西行が高野山で修業中のこと。高野山は女人禁制だったので精々近づけても天野の里までだった。西行は、妻子が天野の里に暮らしていることを知っていたらしい。妻子の庵を訪れたという説もある。確かなことは、西行の実家・佐藤氏は紀ノ川沿いに荘園を持つ有力な豪族であった。西行の放浪・修行生活は実家の経済的支援があればこそ成り立ったであろうし、妻子も庵を維持できたのはそこが佐藤氏の地盤に近い天野の里だったことがあろう。
↓伝・曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎の墓
↓宝キョウ印塔から数百m行くと丘の上に「西行堂」がある。
↓西行堂
↓西行堂の脇に西行の妻・娘の墓と伝えられる小さな墓碑がある。
「西行が出家してまもなく(吾輩註・西行の出家は23歳頃)、妻も尼となり1142年ここに庵を結び読経三昧の生活を送っていました。娘も出家の志があって、京都より15歳ばかりにて高野山の麓の天野と聞いただけの一人旅。やっと天野にたどり着き、母娘二人で仏門に入り、生涯を終えたのでした。娘の亡くなったのは1199年秋彼岸と言われています」。西行の俗名は「佐藤教清(のりきよ)」、御所の北面の武士だった。23歳頃思うところがあり妻子を捨てて出家した。2、3年間京・嵯峨野辺りに庵を結んだ後旅立ち、30代は高野山で仏道修行をした。40代になり全国を旅するようになった。妻と娘が天野の里に庵を結んだのは、西行が高野山で修業中のこと。高野山は女人禁制だったので精々近づけても天野の里までだった。西行は、妻子が天野の里に暮らしていることを知っていたらしい。妻子の庵を訪れたという説もある。確かなことは、西行の実家・佐藤氏は紀ノ川沿いに荘園を持つ有力な豪族であった。西行の放浪・修行生活は実家の経済的支援があればこそ成り立ったであろうし、妻子も庵を維持できたのはそこが佐藤氏の地盤に近い天野の里だったことがあろう。
↓西行堂の脇にある伝・西行の妻娘の墓。
西行堂の真下にその堂守然とした家がある。その家業は酒店。
↓その家の名は何と「佐藤」。佐藤姓は多いとはいえ、これは偶然の一致だろうか。
次は「院の墓」。これは西行と無縁に見えて実は深層で繋がっている。
「院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。「山家集」(西行の歌集)には、中納言の局が 待賢門院 の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、1149年の頃と推定されます。この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です。ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然と言えます」。西行は女騒がせな男だったことは確か。今で言えばモテた。
↓天野の村社・八幡神社。
村社のこの華麗・豪勢さには目を瞠らされる。
↓伝・横笛の塚もある。
「平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋に落ちたが、叶わぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。後に高野山で多聞坊浄阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。横笛も後を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に身を投げたなどの諸説があるが、1179年高野山に入った時頼のあとを慕い、ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく、19歳ではかなくなったと伝えられています」
↓「貧女の一燈お照の墓」
「高野山の奥の院に、千年近くの間光り輝いている貧女の一燈と言われる燈籠があります。お照という少女が、自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられています」
西行堂の真下にその堂守然とした家がある。その家業は酒店。
↓その家の名は何と「佐藤」。佐藤姓は多いとはいえ、これは偶然の一致だろうか。
次は「院の墓」。これは西行と無縁に見えて実は深層で繋がっている。
「院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。「山家集」(西行の歌集)には、中納言の局が 待賢門院 の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、1149年の頃と推定されます。この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です。ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然と言えます」。西行は女騒がせな男だったことは確か。今で言えばモテた。
↓天野の村社・八幡神社。
村社のこの華麗・豪勢さには目を瞠らされる。
↓伝・横笛の塚もある。
「平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋に落ちたが、叶わぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。後に高野山で多聞坊浄阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。横笛も後を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に身を投げたなどの諸説があるが、1179年高野山に入った時頼のあとを慕い、ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく、19歳ではかなくなったと伝えられています」
↓「貧女の一燈お照の墓」
「高野山の奥の院に、千年近くの間光り輝いている貧女の一燈と言われる燈籠があります。お照という少女が、自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられています」
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