2012年3月22日木曜日

〇興福寺・国宝館に展示してある不思議な仏頭。飛鳥「山田寺」由来と謂われる。

これは、興福寺・国宝館に展示されている仏頭・国宝である。丈六仏の頭で大きい。顔面部以外は損壊が激しいが、まるでギリシア彫刻のようで異彩を放っている。
↓これが興福寺仏頭の模造品。「飛鳥資料館」に展示してある。



興福寺 国宝館と飛鳥資料館の解説を併せ読むと、この仏頭の辿った数奇な運命が分かる。この仏頭は元は飛鳥・山田寺の薬師如来像のものだった。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が建立した氏寺。講堂の本尊・薬師三尊の中尊像として685年に完成したという。その後山田寺は堂塔伽藍の殆どを失って衰退し平安末期には観音堂を残すのみで細々と存続していたらしい。他方興福寺は1180年に平重衡の南都焼打ちに遭い殆どの伽藍を焼失した。東金堂も焼け落ちた。そして1186年に東金堂が再建されたとき、その本尊として飛鳥・山田寺の薬師三尊像が移された。しかし東金堂は火災に遭い薬師三尊のうち薬師如来像は頭部だけを残して焼けてしまった。脇侍の日光・月光両菩薩像は山田寺伝来の仏像がそのまま現在も新しい薬師如来像の脇侍を勤めているという。焼け残った薬師如来像の仏頭はその後その行方を知る者は誰もいなくなった。ところが近年薬師如来像の基壇の修理工事をしたところ基壇の中に収められた仏頭が発見されたという。数奇な運命の仏頭というべし。
↓これが現在の東金堂・薬師三尊像。薬師如来像の基壇の中に仏頭が納められていた。両脇侍の日光・月光菩薩像は山田寺から伝来のもの。
↓月光菩薩像の横顔。仏頭と面影が似ている。



仏頭の故郷の山田寺も数奇な運命を辿る。 山田寺跡を発掘したところ、先ず回廊の瓦屋根が横倒しになったままの状態で発見された↓
↓次いでその下から横倒しになったままの回廊の連子格子が三間分、そのままの姿で発掘された。


発掘された東回廊の部材は全部、五年の歳月をかけて特殊な保存処理を施されてここ飛鳥資料館に組み立てられている。本物の東廻廊三間分が見られる。
↓山田寺復元図。右から南大門、五重塔、金堂、講堂。 ↓山田寺跡。手前から南大門、五重塔、金堂跡が見えている。
↓東廻廊三間分が示されている。


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