長大堅固な百閒石垣。加藤清正公が築いた。清正公は普請・作事の名人だった。明治10年西南戦争が勃発したとき、薩軍は熊本城を血祭りに挙げて東京まで攻め上ろうとしたが、谷干城指揮下の鎮台軍が守備して落ちなかった。薩軍は攻略を断念して北上し、植木・田原坂で国民皆兵徴集軍と激闘を重ねた末に敗退し九州山地中央部を彷徨しながら南下して生き残り部隊が鹿児島に戻った。この城の攻略は、刀槍や銃器では到底無理。
右から天守閣、副天守閣、宇土櫓。
右から天守閣、宇土櫓、副天守閣。
西大手櫓門に至る道。櫓門は左にある。
西大手櫓門
櫓門を潜った城郭内。左の土塀は先ほどの写真に見る長大石垣の上に建っている。
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