三方ヶ原、設楽ヶ原と来れば最後は桶狭間。奥三河の山中から豊川に出、岡崎を経由して名古屋の東・桶狭間に辿り着いた。着いた先は以前家族旅行で来た場所と同一、国道1号線の傍。桶狭間の位置については諸説があるので別の桶狭間に着くかとちょっとだけ期待したんだが。桶狭間は細長い窪地だったと言われているが、現地に立って見るとそういう地形には全然見えない。辺り一帯都市化が進み往年の面影は全くない。開発により地形の凹凸が均されてしまったというのか。
二車線道路の右側の森が桶狭間史跡。
この森がそう。
史跡公園の入口に建つ石碑
「古戦場」「この地は、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられた。文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。豊明市教育委員会」
「今川治部大輔義元の墓」「駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月に、この墓を建てた。豊明市教育委員会」
桶峡七石表(おけはざましちせきひょう)「桶狭間古戦場が何処であったかは異説があるが、今川義元勢25,000、織田信長勢3,000が入り乱れて戦ったのであるから、その戦場はかなり広範囲にわたっていたと考えられる。ここで問題なのは、義元の本陣、もっと狭く言えば義元戦死の場所が何処かということで、それはこの七石表によってその戦死の場所を知ることができる。一号碑は今川義元戦死の場所、二号碑は松井宗信戦士の場所である。三号碑以下は義元の武将五人の千氏の場所であり、氏名不詳である。」
七石表(一号碑)「桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。明和8年(1771)、尾張藩士人見弥右衛門あつし、赤林孫七郎信之により建てられた。北面「今川上総介義元戦死所」東面「桶峡七石表之一」南面「明和8年羊卯12月18日造」と刻まれている。豊明市教育委員会」
史跡の様子
「徳本の名号」史跡の、道を挟んだ向かいにある。「徳本行者(江戸浄土宗の高僧、文化文政の頃の人)がこの地を訪れて敵味方の戦死者の霊を弔うために建てたもの。円筒形の小塔であり、南無阿弥陀仏の六字の名号が刻まれている。豊明市教育委員会」
史跡の筋向いに豪壮な門構えの寺院がある、高徳院
門前に「桶狭間本山」の石碑を建てている
門を潜ると「今川義元公本陣跡」の碑が建っている
最初の二枚の写真はこの寺院の建つ丘の上から撮った。桶狭間の起伏が窺える唯一の高台。
夕暮れになったので国道1号線を西に辿り名古屋市街を横断して木曾三川公園に来た。ここに道の駅「立田ふれあいの里」がある。今夜はそこで寝る。
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