當麻寺で朝の静寂を味わった後、信貴山に登った。「信貴山縁起絵巻」(国宝)で有名なあの寺、名は「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」という。毘沙門天が御本尊と聞いただけで風変わりな感じがするが、登って見ると実際変わっている。仏教寺院という感じがしない。修行者釈迦の悟り仏教はその死後500~600年間は釈迦教団によって護持されるだけのもの、それが世界的宗教に脱皮するのは天才思想家龍樹の登場による。龍樹が開いた大乗仏教の世界は思想としての器が巨大だった。龍樹以降次々と釈迦に名を借りた大乗仏教思想が盛られ膨大な経典が産出された。しかしインドでは思想仏教は衰退し、やがて土着のジャイナ教、ヒンズー教等に吸収され消滅した。釈迦は今もインドで尊崇されているが、それは一聖人(修行者)としてである。インド仏教が衰退消滅に向かったとき、インド土着のドラヴィダ族の信仰宗教との妥協融合が図られた。真言密教がこの段階の仏教の姿を体現する。やたら仏法を守護する神々やその眷属が登場する。空海は真言密教を最新の仏教と考えたが、インドでは実は終末期の仏教(最新には違いなかったが)。天や明王は、その素性はドラヴィダ族の神々。信貴山上の宗教世界はもはや釈迦仏教から遠く隔たっている。
信貴山・朝護孫子寺と登山国道の間には人造湖が横たわっている。渡る橋が二つも架けられている、赤い大橋
仁王門・山門
信貴山は寺院と言いながら、鳥居が沢山ある。その第一、二番の鳥居がこれ。今も神仏習合の色が濃い
剣鎧護法(けんがいごほう、国宝信貴山縁起絵巻より)「今から千百年前、醍醐天皇が重い病に罹られたとき、当山の高僧命蓮上人が勅命により毘沙門天王に病気平癒の祈願をされた。数日後加持満願の日、剣鎧護法の死者が天皇の枕元に出現されて霊感を授けられると忽ち天皇の病は癒され心安らかになられた。そこでこの地に剣鎧護法を当病平癒の守り本尊として祀られ日夜勤行された。以来、庶民の間にこの事が言い伝えられ無病息災・病気全快の霊験あらたかな神として篤く信仰されるようになった」
信貴山と虎「今から千四百余年前、日本の国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐するため、聖徳太子がこの山に来て戦勝の祈願をされると頭上に毘沙門天王が出現され必勝の秘法を授けられた。奇しくもその日は寅年・寅の日・寅の刻だった。大使はその御加護で敵を滅ばされ世が治まった後、自ら天王の御尊像を刻まれ伽藍を創建して、信ずべき・貴ぶべき山「信貴山」と名付けられた。以来、信貴山の毘沙門天王は虎に縁のある福の神として、寅年・寅の日を縁日と定め大法要が行われる」
赤門。ここから本式の霊場となるよう
千手院
厄除観音
「金運如意・銭亀善神」なる神が祀られているらしい。吾輩は信じない。
不動明王堂
多宝塔
融通尊院
弁財天堂
浴油堂
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