2020年2月18日火曜日

★奥の細道紀行 第286章 福井県敦賀市「木の芽峠」(北陸街道)

〇木の芽峠はどうしても探訪しておかねばならない奥の細道紀行の要所だった。今庄と敦賀の間にある峠。目指してみると、木の芽峠の直下まで林道が拓かれていてセレナで登れた。WCもある。
↓セレナを駐車し木の芽峠探訪開始

 ↓旧北陸街道だと見当を付けた横道まで100mほど登った。この道は今庄から来た旧北陸街道だろう。芭蕉もこの道を等(洞)栽と辿って来ただろう
 ↓旧北陸街道と思しき道を敦賀方面に辿る。
 ↓ すると人家が見えてきた


 ↓ とうとう木の芽峠に着いた


 ↓犬が一匹。吠えた。放し飼い
 人家の前に二頭。盛んに吠えた。うち一頭は放し飼い。近寄って来て吠えかかる。ヤバイ。ボクの後ろに回り吠えながらふくらはぎを多分鼻先で押してくる。女性だけでは怖くてこの峠を越せまい。山賊が居るようなもの。
 ↓「当家は、観光用の家屋では、ない。文正元年(1466)からの住居として、代々‥生活してます」
  〇前川家。芭蕉もこの峠茶屋で一服したろうか。


↓左端に巨大な四頭目が居る。こやつも吠えたが、繋がれている。
 ↑↓「明治天皇木の芽峠御小休所・附御膳水」 宮内庁の制札が傾いている
 ↓立っている地点が本当の峠のてっぺん。向こうは急な下り道、敦賀に通じる。芭蕉もこの峠を越えて敦賀に向けて下って行った。この地点を現代風に分り易く言うと、北陸自動車道・杉津Pの上り線(京都行き)の売店の裏山をひと山越した谷筋
〇この峠は戦国時代の歴史の檜舞台に登場する。織田信長が敦賀金ヶ崎城を落としその勢いで木の芽峠を越えて一気に越前朝倉氏の一乗谷を衝こうとしたとき、北近江の浅井氏の叛旗に遇い朝倉と浅井による挟撃の危機に陥り這う這うの体で京都に逃げ込んだという戦国叙事詩の、その舞台。
 ↓道元禅師の石碑
 「道元大禅師」
 「道元禅師入越(越前)慕古の碑」
↓「木の芽峠 古来より、木の芽峠は北陸道の要衝として人馬の往還もきわめて頻繁であり、峠を越えて京都に向う人、さらに、都を出て北陸に下向する人々にとって、急坂の石畳の道、茅葺の茶屋の印象は、旅をことのほか忘れがたいものにしたであろうと思われます。建長5年(1253)の夏、永平寺を開かれた道元禅師は、病気療養のため、高弟の孤雲和尚、徹通和尚を伴われて、永平寺を御出発になりました。やがて木の芽峠に至り、禅師は、京への随伴を切望される徹通和尚に、爾後の永平寺の守護の大事を説かれ、涙ながらの訣別をされました。
草の葉にかどでせる身の木部山(このめやま) 雲に路あるここちこそすれ
その折の禅師の万感の思いがこの御詠であります。再び、峠を越えることもなく、また、今生の永別となるやも知れず、峠の背を分けて流れる水の如く、南と北に袂を分けられた師弟の胸中は、まことに感慨無量なるものがあったと思われます。曹洞宗木の芽峠奉賛会」

↓中央「平重盛公の墓」 両脇は「先祖代々の墓」
 〇どうやら峠茶屋の主は、平家の公達の子孫であると主張しているように見える。その矜持があればこそ累代峠の古家を守って来れたのだろう。

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